開高健の追悼集(司馬遼太郎他)
出版:筑摩書房
本書は、開高健(以下開高)への弔辞や文芸誌での追悼文を、開高の妻である牧洋子(以下牧)が編纂したものである。二人は谷沢永一主宰の同人誌で知り合い結婚した。当時開高はまだ大学生であり、牧は詩人で、7歳年上の姉さん女房であった。
牧が本文の「あとがき」を書いているが、女性らしからぬ硬質なしっかりとした文章に驚いた。
開高の葬儀は1990年1月12日に青山葬儀場で執り行われ、冒頭に何故か、司馬遼太郎(以下司馬)が23分間に渡る長い弔辞を読んでいる。
開高と司馬の関係は、弔辞の中でも述べられているが、司馬の言葉を借りれば「縁うすきかかわり」であった。が、牧のたっての依頼で「郷里を代表」して司馬が受けたものである。
脱線するが、この二人については、二人を担当した週刊朝日の編集者の言葉を思い出す。「共に同じ大阪出身であり、サービス精神が旺盛で、話術が巧み、文章もユーモラスなところは共通しているけれど、開高さんは純文学の意識が強く、文体も濃密な印象が強い。一方司馬さんは文体がとにかく平明でした。どんな難しいことでも司馬さんが書くとわかったような気分になってしまう」
ただこの日の司馬は、いつもの平明な文章ではなく、推敲に推敲を重ね、人を魅了し圧倒するような弔辞であった。
司馬は、まず、開高における独自の文体に触れ、「『日本三文オペラ』以降、大地に深く爪を突き刺して掘りくずしてゆく巨大な土木機械を思わせるような文体を創造した」と述べ、そしてその文体が「妖怪のような力を見せた」のが「夏の闇」だったと指摘した。そして「夏の闇は名作という以上にあたらしい日本語世界であり、開高健はこの一作を頂点として大河になり、後世を流れ続ける」と絶賛した。
そして「開高健的世界」には「ヴェトナムがあり、戦場の死体があり、グルメ的崇物主義があり、マグナム瓶のワインがあり、また知的ではちきれるように烈しい自己主張をもちながら、死体のように自己を諦めきった饒舌の美女があり、さらには中部ヨーロッパの都市の汚い路地の奥の酒場があります」と、開高のこれまでの作品群を彷彿させる言い回しをしている。具体的に言ってしまえば「ベトナム戦記」「輝ける闇」「オーパ!」「ロマネ・コンティ・一九三五年」「夏の闇」等々となってしまうのを、間接的に内容のエッセンスをさらりと述べる巧い表現をしている。
最後は、「(遺作の『珠玉』を踏まえて)大兄(開高)の文学もその生涯も、吹き込んでくる霰のように、かぎりなく美しいものでありました」と結んだ。
流石に司馬の面目躍如という感じである。
流石に司馬の面目躍如という感じである。
司馬は開高とは「縁うすきかかわり」だったかも知れないが、開高文学の最高の理解者であったことは、間違いないようだ。
私のうがちすぎな見方かもしれないが・・・この弔辞を読むと、牧が敢えて「縁うすき」司馬に弔辞を依頼した意図が透けて見えるようでもある。
兎に角、この追悼集でも、冒頭に司馬の弔辞があることが、大きな重しとなっていることは事実だ。
一方、開高とは40年来の付き合いで、なおかつ開高と牧のめぐりあわせの縁を取り持った同人誌を主宰していた谷沢永一(関西大学名誉教授)は2番目に弔辞を読んでいるが、じつにあっさりしたものだった。
この谷沢は後に、「回想開高健」の中で、牧を「稀代の悪妻」と断じている。これについてはここでは触れない。
私のうがちすぎな見方かもしれないが・・・この弔辞を読むと、牧が敢えて「縁うすき」司馬に弔辞を依頼した意図が透けて見えるようでもある。
兎に角、この追悼集でも、冒頭に司馬の弔辞があることが、大きな重しとなっていることは事実だ。
一方、開高とは40年来の付き合いで、なおかつ開高と牧のめぐりあわせの縁を取り持った同人誌を主宰していた谷沢永一(関西大学名誉教授)は2番目に弔辞を読んでいるが、じつにあっさりしたものだった。
この谷沢は後に、「回想開高健」の中で、牧を「稀代の悪妻」と断じている。これについてはここでは触れない。
0 件のコメント:
コメントを投稿