本質を外した司馬遼太郎論???
著者:福間良明
出版:中公新書
司馬遼太郎は1923年(大正12年)生まれなので、来年2023年は生誕100年になる。恐らく多くの特集や司馬遼太郎論の本が出るのではないかと思います。それはそれで司馬ファンにとっては歓迎すべきことで、楽しみにしています。
本書はそれの先駆けとして出版されたようです。
著者の論点には納得する点もあるが、それ以上に違和感を抱いた。
著者の論点を纏めると、以下のようなことだと思う。
<学歴・職歴>
司馬は旧大阪帝大を落ち、大阪外国語学校(現大阪大学外国語学部)へ。また、戦争により繰り上げ卒業で学徒出陣し、戦車隊に配属、復員後は、「朝日・毎日新聞」と言った一流紙でなく、新興新聞社に入社し、その後産経新聞へ移っている。つまり、著者は、司馬の学歴・職歴ともに「二流かつ傍流」ということが、エリートへの不信。つまりエリートが振りかざす「正しさ」や「イデオロギー」への嫌悪感へと繋がっていると言う。
ただ、会社勤めの経験もなく、いきなり学徒出陣で軍隊へ入った人は、復員した当時の混乱期に、一流会社に就職できないのは普通のことだと私は思うのだが、著者にはそういう観点は欠落しているというか、何が何でも「二流かつ傍流でエリートではない」ということを力説したいようで、執拗に繰り返し書いている。
<人々が何故司馬作品を手にしたのか>
司馬の作品が書かれたのは、高度成長期の中盤であり、生活水準の向上する実感があり、今後の経済的な進展を期待できる時代状況に通じるものがあったと著者は言う。著者はマスメディアを専門としているため、高度成長期の社会状況や教養主義のブームにかなりのページを割いている。
だが実際に司馬作品が売れ出したのは、この高度成長期が終わりかけた1970年代以降なのである。その理由として著者は、前述のかなりのページを割いた話をあっさりと捨て去り、文庫本が一般化した時代になり、書店の棚に常時並べられるようになり、読者が手にしやすくなった。また司馬作品は、サラリーマンの通勤途上に読む「気楽なコマ切れ読書」に適していたという。
こんな説明だけで司馬作品が累計1億冊も売れるなら、他の作家の本も同じように売れるという理屈になってくる。他の作家の本は通勤途上ではなく、机の前で一気に読破したとは思えないが???
著者は経歴や社会状況だけで、司馬遼太郎を論じようとしている。確かにそういう面からのアプローチも必要だが、著者に完全に欠落しているのは、司馬作品の面白さや魅力を理解していないという点ではないかと思う。面白く感じるとか、魅力を感じなければ誰も本など読まない。
本著の中で、「小説でも史伝でもなく、単なる書きものに過ぎない司馬作品」という表現が出てくる。こういう表現が出てくるというのは、著者は司馬自身が、どのような小説を書こうとしていたかを全く理解していない。
講談社倶楽部賞を受賞した直後に司馬は以下のようなことを書いている。
「私は、奇妙な小説の修行法をとりました。小説を書くのではなく、しゃべくりまわるのです。小説という形態を、私のおなかのなかで説話の原型にまで還元してみたかったのです。その説話の一つを珍しく文学にしてみました。ところがさる友人が一読して『君の話の方が面白ぇや』、これは痛烈な酷評でした。となると私はまず、私の小説を、私の話にまで近づけるために、うんと努力しなければなりません」
司馬が目指したのは、こういう形態の読み物であり、従来の小説の観念からみれば、小説ではない読み物なのである。
これに関しては、劇作家であり評論家の山崎正和は司馬をよく理解していたようである。山崎は五百旗頭真との対談で「彼(司馬)の小説をお読みになればわかるんですが、晩年になるとますます座談調になっていく。そして語っている司馬遼太郎の語り口、同時に司馬遼太郎の肉体の存在感というものが見えてくるような言葉で語る」
また、司馬の最後になるエッセイである「草原の記」について「いろんな意味で、私は司馬文学を凝縮したような作品だと思うんです。まず座談調というものが徹底的になっている。したがってあなた(五百旗頭)がおっしゃったように、小説だか随筆だかわからないところへ入ってしまう。しかし司馬さんに言わせたら、逆説的無常観なんて、書いてしまったらそれまでだというところがあったかもしれない」「私(山崎)の言い方による逆説的無常観を、彼(司馬)が正面から書いた小説を読みたかった。『草原の記』には、その片鱗が現れている」
山崎正和に本格的な司馬遼太郎論を書いて欲しかった。
<司馬史観および歴史的事実>
また本書の最後の方に司馬史観のことや、歴史学者にやっと認められて司馬は一流になったという記述があるが、これについても「司馬史観」なるものを問われた時に、司馬は「私は歴史学者ではなく、小説家だ」と述べている。つまりフィクションや創造力がなくなれば、小説は面白くも何ともないということであろう。読者が司馬作品を読んで、それが歴史的事実だと思ってしまうのは、作家の力量の問題で、司馬の小説に歴史的事実を求めても何の意味も持たないということであろう。