DVDは司馬遼太郎の魅力がたっぷり
原題:「雑談『昭和』への道」1986年(昭和61年)NHKにて放映
後に「『昭和』という国家」と改題して出版
著者:司馬遼太郎
出版:NHKブックス
「雑談『昭和』への道」は、司馬遼太郎誕生100年を記念して、NHK大阪放送局で、関西地区中心に再放送されたそうです。そのDVDを頂いたので、それを見ながら、また並行して放送内容を活字にした「『昭和』という国家」を読み進めました。
この放送は全12回に渡ったが、司馬は毎回撮影スタジオへはひとりで手ぶらでやってきて、メモも見ることも無く全てをやり切ったそうです。
内容については、日本が無謀な太平洋戦争へとまっしぐらに進んだ原因が何であったかを訴えるものであるが、改めてこの人の誠実さというか、憂国の士というイメージを感じさせるものであった。
この放送内容は、原題に「雑談」とあるように、内容が多岐に渡り纏めるのが非常に難しいが、特に、面白かったのは、9章(9回目放映)の「買い続けた西欧近代」と11章(11回目放映)の「江戸日本の多様さ」です。
この二つの章の内容は、明治政府は、多様性のあった江戸期を否定し、ヨーロッパの近代を買い続けたことによる弊害が、時間を経るにしたがってより顕著になり、日本の不幸を生んだという。
江戸幕府が定めた漢学は朱子学であったが、実態はゆるい統制であったので、いろいろな学問や思想が噴出して、海保青陵、山片蟠桃のような市場経済の研究や、その他富永仲持(哲学・宗教学)、三浦梅園(自然科学)、本居宣長(国文学)、荻生徂徠(儒学・政治学)、関孝和(和算)等、今と変わらないような学問のレベルまで達していた。
以上、纏まりに欠けますが、司馬の論理展開の巧さ、博覧強記ともいうべき膨大な知識の中から具体的に持ち出す事例のリアリズムに飛んだ的確さ、物憂げな表情や人懐っこい笑顔、その魅力を存分に味わえました。
著者:司馬遼太郎
出版:NHKブックス
「雑談『昭和』への道」は、司馬遼太郎誕生100年を記念して、NHK大阪放送局で、関西地区中心に再放送されたそうです。そのDVDを頂いたので、それを見ながら、また並行して放送内容を活字にした「『昭和』という国家」を読み進めました。
この放送は全12回に渡ったが、司馬は毎回撮影スタジオへはひとりで手ぶらでやってきて、メモも見ることも無く全てをやり切ったそうです。
内容については、日本が無謀な太平洋戦争へとまっしぐらに進んだ原因が何であったかを訴えるものであるが、改めてこの人の誠実さというか、憂国の士というイメージを感じさせるものであった。
この放送内容は、原題に「雑談」とあるように、内容が多岐に渡り纏めるのが非常に難しいが、特に、面白かったのは、9章(9回目放映)の「買い続けた西欧近代」と11章(11回目放映)の「江戸日本の多様さ」です。
この二つの章の内容は、明治政府は、多様性のあった江戸期を否定し、ヨーロッパの近代を買い続けたことによる弊害が、時間を経るにしたがってより顕著になり、日本の不幸を生んだという。
江戸幕府が定めた漢学は朱子学であったが、実態はゆるい統制であったので、いろいろな学問や思想が噴出して、海保青陵、山片蟠桃のような市場経済の研究や、その他富永仲持(哲学・宗教学)、三浦梅園(自然科学)、本居宣長(国文学)、荻生徂徠(儒学・政治学)、関孝和(和算)等、今と変わらないような学問のレベルまで達していた。
司馬は自身を「明治維新のファン」と自認しているが、一方このような江戸期のリアリズムを断ち切ったのが明治政府であり、ヨーロッパの近代を買い続け、それを手本とした不幸を嘆いている。
その不幸の代表例が、明治の申し子というべき漱石であった。漱石の基本的な学問は子供の頃に習い覚えた漢学であったが、その上に洋学が覆い重なった。ここには日本という要素は入っていない(司馬はこれは漱石が悪いのではないと強調している)。その結果ロンドンで漱石はノイローゼになる。漱石をノイローゼにさせるような日本人には越え難いものが、ヨーロッパの近代であったという。
山崎正和の「不機嫌の時代」を例に挙げて、明治以降日本の知識人はノイローゼ気味であったと。
それに関して、若干話が外れるが、真珠湾攻撃の直後に「文学界」という雑誌が、「近代の超克」というテーマで座談会を催し、論文が発表されたことに、司馬は注目する。
この内容を評して司馬は「西欧というものにあこがれながらも、どうしても及ばないと思っていた日本の知識人にとって、真珠湾攻撃の成功と、イギリスの東洋艦隊の壊滅という華々しい戦果に日本の知識人は、大きな解放感、つかの間の極めて心理学的な解放感を得た」という。(当然この座談会は戦後批判に晒された)
出席者や論文寄稿者は、小林秀雄、河上徹太郎、亀井勝一郎、林房雄等々13名、当時を代表する知識人であった。
司馬はいう。「この座談会が基本的におかしなことは、ここでいう超克すべき近代というのは、情けないことに江戸時代ではなく、明治維新以後にずっと買い続け、あるいは移植や接ぎ木されてきたヨーロッパの近代を言っている。そこにはリアリズムはなく、それまで西欧には敵わないと思い、ノイローゼ気味の知識人が溜飲を下げた姿がある」
司馬としては、江戸期に始まった合理主義的な日本の近代を再評価すべきと強調する。
以上は、内容の一例であるが、要するに多様性・合理主義的であった江戸文化を断ち切って、近代化を突き進んだ日本が、その不幸の積み重なりを抱えながら昭和へと突入した。
その中でも、特にドイツ陸軍を真似た日本陸軍は、偏差値エリート集団による「参謀本部」を強化し、後には「統帥権」の乱用により、合理主義を捨て、視野狭窄症状態で太平洋戦争へと突き進んだ。
その不幸の代表例が、明治の申し子というべき漱石であった。漱石の基本的な学問は子供の頃に習い覚えた漢学であったが、その上に洋学が覆い重なった。ここには日本という要素は入っていない(司馬はこれは漱石が悪いのではないと強調している)。その結果ロンドンで漱石はノイローゼになる。漱石をノイローゼにさせるような日本人には越え難いものが、ヨーロッパの近代であったという。
山崎正和の「不機嫌の時代」を例に挙げて、明治以降日本の知識人はノイローゼ気味であったと。
それに関して、若干話が外れるが、真珠湾攻撃の直後に「文学界」という雑誌が、「近代の超克」というテーマで座談会を催し、論文が発表されたことに、司馬は注目する。
この内容を評して司馬は「西欧というものにあこがれながらも、どうしても及ばないと思っていた日本の知識人にとって、真珠湾攻撃の成功と、イギリスの東洋艦隊の壊滅という華々しい戦果に日本の知識人は、大きな解放感、つかの間の極めて心理学的な解放感を得た」という。(当然この座談会は戦後批判に晒された)
出席者や論文寄稿者は、小林秀雄、河上徹太郎、亀井勝一郎、林房雄等々13名、当時を代表する知識人であった。
司馬はいう。「この座談会が基本的におかしなことは、ここでいう超克すべき近代というのは、情けないことに江戸時代ではなく、明治維新以後にずっと買い続け、あるいは移植や接ぎ木されてきたヨーロッパの近代を言っている。そこにはリアリズムはなく、それまで西欧には敵わないと思い、ノイローゼ気味の知識人が溜飲を下げた姿がある」
司馬としては、江戸期に始まった合理主義的な日本の近代を再評価すべきと強調する。
以上は、内容の一例であるが、要するに多様性・合理主義的であった江戸文化を断ち切って、近代化を突き進んだ日本が、その不幸の積み重なりを抱えながら昭和へと突入した。
その中でも、特にドイツ陸軍を真似た日本陸軍は、偏差値エリート集団による「参謀本部」を強化し、後には「統帥権」の乱用により、合理主義を捨て、視野狭窄症状態で太平洋戦争へと突き進んだ。
以上、纏まりに欠けますが、司馬の論理展開の巧さ、博覧強記ともいうべき膨大な知識の中から具体的に持ち出す事例のリアリズムに飛んだ的確さ、物憂げな表情や人懐っこい笑顔、その魅力を存分に味わえました。