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2023年11月21日火曜日

読書 「昭和」という国家 司馬遼太郎

     DVDは司馬遼太郎の魅力がたっぷり


原題:「雑談『昭和』への道」1986年(昭和61年)NHKにて放映 
後に「『昭和』という国家」と改題して出版
著者:司馬遼太郎
出版:NHKブックス

「雑談『昭和』への道」は、司馬遼太郎誕生100年を記念して、NHK大阪放送局で、関西地区中心に再放送されたそうです。そのDVDを頂いたので、それを見ながら、また並行して放送内容を活字にした「『昭和』という国家」を読み進めました。

この放送は全12回に渡ったが、司馬は毎回撮影スタジオへはひとりで手ぶらでやってきて、メモも見ることも無く全てをやり切ったそうです。
内容については、日本が無謀な太平洋戦争へとまっしぐらに進んだ原因が何であったかを訴えるものであるが、改めてこの人の誠実さというか、憂国の士というイメージを感じさせるものであった。

この放送内容は、原題に「雑談」とあるように、内容が多岐に渡り纏めるのが非常に難しいが、特に、面白かったのは、9章(9回目放映)の買い続けた西欧近代と11章(11回目放映)の江戸日本の多様さです。
この二つの章の内容は、明治政府は、多様性のあった江戸期を否定し、ヨーロッパの近代を買い続けたことによる弊害が、時間を経るにしたがってより顕著になり、日本の不幸を生んだという。

江戸幕府が定めた漢学は朱子学であったが、実態はゆるい統制であったので、いろいろな学問や思想が噴出して、海保青陵山片蟠桃のような市場経済の研究や、その他富永仲持(哲学・宗教学)、三浦梅園(自然科学)、本居宣長(国文学)、荻生徂徠(儒学・政治学)、関孝和(和算)等、今と変わらないような学問のレベルまで達していた。
司馬は自身を「明治維新のファン」と自認しているが、一方このような江戸期のリアリズムを断ち切ったのが明治政府であり、ヨーロッパの近代を買い続け、それを手本とした不幸を嘆いている。
その不幸の代表例が、明治の申し子というべき漱石であった。漱石の基本的な学問は子供の頃に習い覚えた漢学であったが、その上に洋学が覆い重なった。ここには日本という要素は入っていない(司馬はこれは漱石が悪いのではないと強調している)。その結果ロンドンで漱石はノイローゼになる。漱石をノイローゼにさせるような日本人には越え難いものが、ヨーロッパの近代であったという。
山崎正和の「不機嫌の時代」を例に挙げて、明治以降日本の知識人はノイローゼ気味であったと。

それに関して、若干話が外れるが、真珠湾攻撃の直後に「文学界」という雑誌が、近代の超克というテーマで座談会を催し、論文が発表されたことに、司馬は注目する。
この内容を評して司馬は「西欧というものにあこがれながらも、どうしても及ばないと思っていた日本の知識人にとって、真珠湾攻撃の成功と、イギリスの東洋艦隊の壊滅という華々しい戦果に日本の知識人は、大きな解放感、つかの間の極めて心理学的な解放感を得た」という。(当然この座談会は戦後批判に晒された)
出席者や論文寄稿者は、小林秀雄、河上徹太郎、亀井勝一郎、林房雄等々13名、当時を代表する知識人であった。
司馬はいう。「この座談会が基本的におかしなことは、ここでいう超克すべき近代というのは、情けないことに江戸時代ではなく、明治維新以後にずっと買い続け、あるいは移植や接ぎ木されてきたヨーロッパの近代を言っている。そこにはリアリズムはなく、それまで西欧には敵わないと思い、ノイローゼ気味の知識人が溜飲を下げた姿がある」
司馬としては、江戸期に始まった合理主義的な日本の近代を再評価すべきと強調する。

以上は、内容の一例であるが、要するに多様性・合理主義的であった江戸文化を断ち切って、近代化を突き進んだ日本が、その不幸の積み重なりを抱えながら昭和へと突入した。
その中でも、特にドイツ陸軍を真似た日本陸軍は、偏差値エリート集団による「参謀本部」を強化し、後には「統帥権」の乱用により、合理主義を捨て、視野狭窄症状態で太平洋戦争へと突き進んだ。

以上、纏まりに欠けますが、司馬の論理展開の巧さ、博覧強記ともいうべき膨大な知識の中から具体的に持ち出す事例のリアリズムに飛んだ的確さ、物憂げな表情や人懐っこい笑顔、その魅力を存分に味わえました。

2023年11月9日木曜日

読書 建築家、走る(隈研吾)

   華々しい建築家の源は挫折から出発していた


著者:隈研吾(インタビュー清野由美)
出版:新潮文庫(初版の単行本は2013年出版)

2015年、新国立競技場の設計が、「Queen of the Unbuilt(建たない建築の女王)」の異名を持つ「ザハ・ハディ」の案が白紙化され、再コンペになり、隈研吾(大成建設・梓設計JV)の設計案が採用されたことで、一躍時の人になった著者だが、本書は、それ以前の著者の半生を自伝的に語り尽くしたもので、著者の根源的なものに触れられる一冊といえる。
(因みに新国立競技場の1回目のコンペには著者は参加していない)


長期に渡り日々ざっくばらんに語ったことを元に口述筆記のような形に纏めているので、非常に読みやすい。

私が隈研吾を知ったのは、毎年カキツバタの咲く時期に、根津美術館で公開される尾形光琳の「燕子花図屏風」を見に行った時でした。
その年(2012年)は、「燕子花図屏風」とNYのメトロポリタン美術館所蔵「八橋図」の光琳の二つの屏風が展示されるというので、初めて根津美術館へ行き、その敷地に足を踏み入れた瞬間に、シンプルかつ印象的なエントランスに魅了され、後で調べたらそれが隈研吾の設計ということを知った次第です。

著者は、順風満帆の軌跡をたどって来たと思いしや、バブルの最中に挫折を味わっている。1991年に世田谷環八通りに立ち上げた「M2」が、完成と共に大ブーイングを浴び、その後東京での仕事は全くなくなった。
著者としては、東京のバブル全盛時代の「カオス」を現代建築的に翻訳しようと試みて、復古主義的ポストモダニズムへの意地の悪い批評のつもりが、その意図はまったく伝わらず激しい非難にさらされた。
確かにネットでこの建物を見ると、中央をイオニア様式の巨大な柱が貫いて、その中をむき出しのエレベーターが上下しているカオスそのもので、外観も異様な感じで、趣味の悪い建物そのもののように思える。

世田谷環八通りに立ち上げた「M2」の概要
(ネットより)

この建物は当初マツダのショールームだったが売却され、現在は斎場になっていました。何とも皮肉な運命を辿ったようです。




その後東京では、2002年の「ADK松竹スクエア」まで、声すらかからなくなり、地方での仕事になっていくが、この時期に現在の素地が築かれていったと著者は述べている。
この時期に作られたものは、地元で産する素材を使い、地元の環境に適した建物を作ることが中心となってゆく。

<1994年「見えない建築:亀老山展望台(今治市)」>
 山の中に建物を埋め込んでいる。
 入口のトンネルを入り、出口が山の頂上で、頂上に出たとたん展望が一気に開け
 る。
<1995年「見えない建築の進化:水/ガラス(熱海市)」>
 海と部屋の一体化
<1996年「予算がなくてアイデアの建物:森舞台(宮城県登米市)」>
 周囲の森を舞台装置に見立て、建物の簡略化と地元産の節のある安い木の活用。
<2000年「石を使い尽くす:石の美術館(栃木県那須町)>
 予算を絞るため通常の建築材を使わず、全部石で作る。自前の石職人の活用。
 「石格子」の発明。
<2000年「やがてライトの建築につながる:那珂川町馬頭広重美術館」>
  広重「大はしあたけの夕立」の「雨」を再現した建物。
  広重が直線で描いた雨を、木の格子の重層で表現。屋根への不燃材処理した
  地元裏山の杉材の使用。
  後日、この建物がフランク・ロイド・ライトの建築に似ていると言われた。
  ライトは、大の広重ファンで、かつ20代の時にシカゴ万博の日本館を見て
  以降、劇的に彼の建築は変わった。ヨーロッパの伝統的な重々しいものから、
  屋根が左右に伸びる透明感のある様式。後に「ライト風」と言われるものへ。
  そこには平等院鳳凰堂の屋根が意識されている。

そして、上記の地方の作品で、ヨ-ローッパから「国際石の建築賞」「国際木の建築賞」を受賞している。
このようにして、著者は地方の仕事で「場所」と自分をつなぐ方法を発見し、その後海外に広がった舞台で、更に大きな制約にさらされ、揉まれ、更に「場所」をつかんでいったと述べている。

隈研吾の作品は一般に「和の大家」と言われているが、これらの作品群を見ると(木とは限らない)自然素材を使って「環境に溶け込む建築家」と言えそうだ。

この本を読んで、建築の世界の門外漢である私にも、近代以降の建築様式の流れや、建築家がどのようにして自分の作品に思いを込めていくのかが、よく分かる。
また、「住宅ローン」というアメリカでの発明が、「賃貸住宅」の考えから「持ち家」への考えに変化したことで、ヨーロッパとアメリカの経済の差に繋がっていったかという見方や、更に、コンクリートでできたマンションは完成した瞬間から劣化が始まり、かつての日本の木造建築のような部材取り換えや設備更新が難しいので、ドンドン朽ち果てていくという考えも、今のタワマンブームに対しての批判として面白かった。