華々しい建築家の源は挫折から出発していた
出版:新潮文庫(初版の単行本は2013年出版)
2015年、新国立競技場の設計が、「Queen of the Unbuilt(建たない建築の女王)」の異名を持つ「ザハ・ハディ」の案が白紙化され、再コンペになり、隈研吾(大成建設・梓設計JV)の設計案が採用されたことで、一躍時の人になった著者だが、本書は、それ以前の著者の半生を自伝的に語り尽くしたもので、著者の根源的なものに触れられる一冊といえる。
(因みに新国立競技場の1回目のコンペには著者は参加していない)
(因みに新国立競技場の1回目のコンペには著者は参加していない)
長期に渡り日々ざっくばらんに語ったことを元に口述筆記のような形に纏めているので、非常に読みやすい。
私が隈研吾を知ったのは、毎年カキツバタの咲く時期に、根津美術館で公開される尾形光琳の「燕子花図屏風」を見に行った時でした。
その年(2012年)は、「燕子花図屏風」とNYのメトロポリタン美術館所蔵「八橋図」の光琳の二つの屏風が展示されるというので、初めて根津美術館へ行き、その敷地に足を踏み入れた瞬間に、シンプルかつ印象的なエントランスに魅了され、後で調べたらそれが隈研吾の設計ということを知った次第です。
私が隈研吾を知ったのは、毎年カキツバタの咲く時期に、根津美術館で公開される尾形光琳の「燕子花図屏風」を見に行った時でした。
その年(2012年)は、「燕子花図屏風」とNYのメトロポリタン美術館所蔵「八橋図」の光琳の二つの屏風が展示されるというので、初めて根津美術館へ行き、その敷地に足を踏み入れた瞬間に、シンプルかつ印象的なエントランスに魅了され、後で調べたらそれが隈研吾の設計ということを知った次第です。
著者は、順風満帆の軌跡をたどって来たと思いしや、バブルの最中に挫折を味わっている。1991年に世田谷環八通りに立ち上げた「M2」が、完成と共に大ブーイングを浴び、その後東京での仕事は全くなくなった。
著者としては、東京のバブル全盛時代の「カオス」を現代建築的に翻訳しようと試みて、復古主義的ポストモダニズムへの意地の悪い批評のつもりが、その意図はまったく伝わらず激しい非難にさらされた。
著者としては、東京のバブル全盛時代の「カオス」を現代建築的に翻訳しようと試みて、復古主義的ポストモダニズムへの意地の悪い批評のつもりが、その意図はまったく伝わらず激しい非難にさらされた。
世田谷環八通りに立ち上げた「M2」の概要
(ネットより)
この建物は当初マツダのショールームだったが売却され、現在は斎場になっていました。何とも皮肉な運命を辿ったようです。
その後東京では、2002年の「ADK松竹スクエア」まで、声すらかからなくなり、地方での仕事になっていくが、この時期に現在の素地が築かれていったと著者は述べている。
この時期に作られたものは、地元で産する素材を使い、地元の環境に適した建物を作ることが中心となってゆく。<1994年「見えない建築:亀老山展望台(今治市)」>
山の中に建物を埋め込んでいる。
入口のトンネルを入り、出口が山の頂上で、頂上に出たとたん展望が一気に開け
る。
<1995年「見えない建築の進化:水/ガラス(熱海市)」>
海と部屋の一体化
<1996年「予算がなくてアイデアの建物:森舞台(宮城県登米市)」>
周囲の森を舞台装置に見立て、建物の簡略化と地元産の節のある安い木の活用。
<2000年「石を使い尽くす:石の美術館(栃木県那須町)>
予算を絞るため通常の建築材を使わず、全部石で作る。自前の石職人の活用。
「石格子」の発明。
<2000年「やがてライトの建築につながる:那珂川町馬頭広重美術館」>
広重「大はしあたけの夕立」の「雨」を再現した建物。
広重が直線で描いた雨を、木の格子の重層で表現。屋根への不燃材処理した
<1995年「見えない建築の進化:水/ガラス(熱海市)」>
海と部屋の一体化
<1996年「予算がなくてアイデアの建物:森舞台(宮城県登米市)」>
周囲の森を舞台装置に見立て、建物の簡略化と地元産の節のある安い木の活用。
<2000年「石を使い尽くす:石の美術館(栃木県那須町)>
予算を絞るため通常の建築材を使わず、全部石で作る。自前の石職人の活用。
「石格子」の発明。
<2000年「やがてライトの建築につながる:那珂川町馬頭広重美術館」>
広重「大はしあたけの夕立」の「雨」を再現した建物。
広重が直線で描いた雨を、木の格子の重層で表現。屋根への不燃材処理した
地元裏山の杉材の使用。
そして、上記の地方の作品で、ヨ-ローッパから「国際石の建築賞」と「国際木の建築賞」を受賞している。
このようにして、著者は地方の仕事で「場所」と自分をつなぐ方法を発見し、その後海外に広がった舞台で、更に大きな制約にさらされ、揉まれ、更に「場所」をつかんでいったと述べている。
隈研吾の作品は一般に「和の大家」と言われているが、これらの作品群を見ると(木とは限らない)自然素材を使って「環境に溶け込む建築家」と言えそうだ。
この本を読んで、建築の世界の門外漢である私にも、近代以降の建築様式の流れや、建築家がどのようにして自分の作品に思いを込めていくのかが、よく分かる。
また、「住宅ローン」というアメリカでの発明が、「賃貸住宅」の考えから「持ち家」への考えに変化したことで、ヨーロッパとアメリカの経済の差に繋がっていったかという見方や、更に、コンクリートでできたマンションは完成した瞬間から劣化が始まり、かつての日本の木造建築のような部材取り換えや設備更新が難しいので、ドンドン朽ち果てていくという考えも、今のタワマンブームに対しての批判として面白かった。
後日、この建物がフランク・ロイド・ライトの建築に似ていると言われた。
ライトは、大の広重ファンで、かつ20代の時にシカゴ万博の日本館を見て
ライトは、大の広重ファンで、かつ20代の時にシカゴ万博の日本館を見て
以降、劇的に彼の建築は変わった。ヨーロッパの伝統的な重々しいものから、
屋根が左右に伸びる透明感のある様式。後に「ライト風」と言われるものへ。
そこには平等院鳳凰堂の屋根が意識されている。
そして、上記の地方の作品で、ヨ-ローッパから「国際石の建築賞」と「国際木の建築賞」を受賞している。
このようにして、著者は地方の仕事で「場所」と自分をつなぐ方法を発見し、その後海外に広がった舞台で、更に大きな制約にさらされ、揉まれ、更に「場所」をつかんでいったと述べている。
隈研吾の作品は一般に「和の大家」と言われているが、これらの作品群を見ると(木とは限らない)自然素材を使って「環境に溶け込む建築家」と言えそうだ。
この本を読んで、建築の世界の門外漢である私にも、近代以降の建築様式の流れや、建築家がどのようにして自分の作品に思いを込めていくのかが、よく分かる。
また、「住宅ローン」というアメリカでの発明が、「賃貸住宅」の考えから「持ち家」への考えに変化したことで、ヨーロッパとアメリカの経済の差に繋がっていったかという見方や、更に、コンクリートでできたマンションは完成した瞬間から劣化が始まり、かつての日本の木造建築のような部材取り換えや設備更新が難しいので、ドンドン朽ち果てていくという考えも、今のタワマンブームに対しての批判として面白かった。
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