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2023年8月20日日曜日

写真 彩の国・伊奈の花火

     遠くで花火の音を聞きながら


8月19日(土)の伊奈町での花火大会です。
会場周辺には、車で近寄れないので、離れた場所から、木立越しに少し音のずれた花火を見ました。
ローカルな花火大会なので、打ち上げ花火数も3000発と小ぶりなものです。

花火の撮影はほとんど経験がないので、試行錯誤での撮影でした。
打ち上げ場所が一カ所なので、比較明合成撮影やバルブ撮影だと、花火がやたら重なるので、すぐに断念し、単純な「Sモード」での撮影に切り替えました。
これで秒数を調整することで、花火の重なりを適度に抑えることができました。

遠くで音のずれた花火を見ていますと、少し寂しい花火に見え、「遠くで花火の音を聞きながら」というタイトルをつけました。
このタイトルは、アリスの「遠くで汽笛を聞きながら」からの借り物です。

「遠くで汽笛を聞きながら」
悩みつづけた日々が
まるで嘘のように
忘れられる時が
来るまで心を閉じたまま
暮らしてゆこう
遠くで汽笛を聞きながら  
何もいいことがなかったこの街で・・・
























2023年8月13日日曜日

読書 ライカと歩く京都(小山薫堂)

       歩いて撮るカメラの魅力が満載


著者:小山薫堂
出版:PHP研究所

映画「おくりびと」の脚本家でもあり、放送作家の著者と、バーチャルな写真家アレックス・ムートンの二人が、ライカ(M3・M7・M9-P)を持って歩いた京都の魅力を紹介してくれます。

今どき、ライカが優れたカメラだとは思いませんが、カメラ好きにとっては、かつての銀幕の大スターのような存在なのかも知れません。

話が変わって、かつてNHK・BSで放送された「京都人の密かな愉しみ」という番組がありました。(今はNHKオンデマンドで見ることができます)
内容は、京都の伝統行事とそれに絡むオムニバスドラマで構成されており、観光では見えにくい京都の生活文化を地元民の視線から描いています。

丁度、この番組のイメージに合うのがこの本で、カメラを持って歩くと、見えてくる京都がそこにありそうです。
今度京都に行ったら、この本に掲載されている場所へ足を運びたいと思います。
さしずめ、カバーにある「行者橋」かな・・・(舞子さんが居るとは思いませんが)

※以下は、かつて私が哲学の道近くで立ち寄った喫茶店での写真です。
ここのオーナーは、この写真からすると、大のカメラ好きのようです。



2023年8月12日土曜日

読書 信長の正体(本郷和人)

    歴史学者の書いたこれまでと違う信長論


著者:本郷和人
出版:文春文庫

著者は、もともと「人物史」が大好きであったが、大学で日本史を専門的に学ぼうとしたところ、そこには「人物史」はなかったという。
大学での指導教授は「歴史学は人間の心までは分け入るべきではない」という禁欲的な姿勢を強調したこともあり、著者は「人物史」を封印した。

それから40年以上経ち、その封印を解いて「自分なりの人物史」をあらわしたのが本書である。

著者の人物史への封印を解く回答とは、ひとりの人間、あるいは物語的な人間を描くのは、ドラマの演出家や歴史小説家の仕事として割り切って、「歴史的人間」という概念を採り入れて織田信長を論じることであった。本書はそのテストケースである。

上記のような考えのもとに、全体に、信長個人の特異性や魅力を述べると言うより、歴史の流れの中で、なぜ信長がこの時代に生き残ったか、あるいはこの時代が信長を必要としていたかという観点から構成されている。

例えば、「比叡山焼き討ち」の例を取れば、通常は信長の異常性もしくは非情性が、問題にされるが、著者は、「比叡山延暦寺が、何故それまでの守られるべきものではなく、攻撃してもいいと判断される対象となったか」という観点から、解き明かしてゆく。
具体的には、いっけん信長とは関係のない、空海・最澄の密教の歴史から始まり、それらが国家を担う宗教となったが、長い変遷の末、時代の要請に対しての「耐用年数」を超えてしまったと、時代の流れから具体的に読み解いていく。見方を変えれば、歴史全体の中で、信長を位置づけようとしている。
このように、これまでの信長論とは、一味違って、大きな歴史の流れから、信長を解き明かそうとしているのが新鮮味があって面白い。

話は変わるが、著者に対して、ネットでの書き込みで「ロクな論文も書かずに、一般向けの本をやたら書きまくったり、メディアに出過ぎだ」との批判がある。
それらの批判を予期していたのか否か分からないが、著者は、この本の中で、最近の若者の歴史嫌いの傾向を憂い、「みんなにもっと歴史を好きになってもらいたい」という理由で、「仲間に笑われたり、軽んじられるのは分かっているが、テレビやラジオなどのメディアに出演するようになった」と、心境を述べている。

追記:本書で気になるのは、「信長の正体」というタイトルと、文庫本のマンガチックな表紙です。恐らく本人ではなく、編集者が、若者向けを狙ってこのようにしたのだと思いますが、イマイチでした。本の内容への批判ではありません。

2023年8月5日土曜日

写真 森の妖精・レンゲショウマ

 赤城山自然園では、森の妖精といわれるレンゲショウマの大群落が見頃を迎えています。(撮影 2023-8-3)

以下、写真をご覧下さい。









































































2023年8月2日水曜日

読書 日本に古代はあったのか(井上章一)

    世界史的視野からみる日本史の疑問



著者:井上章一
出版:角川選書

著者を知っている読者ならお分かりですが、この本も著者特有の屁理屈を捏ねまわして、既存の東大学派と称される定説に「いちゃもん」をつけている本です???

私は、著者の発想のユニークさと、表現や物語の展開が面白いので、半分与太話かなと思いながらも、京都人である著者に敬意を込めて、読み始めた次第です。

著者が昔建築史の勉強していた時に、外国人を法隆寺に案内して、「古代の建築」と説明して、聞きとがめられたことから話は始まってゆく。法隆寺建立は7世紀初頭で、ヨーロッパでは、西ローマ帝国が滅亡(476年)し、既に中世に移行している時代である。
それに比して、日本での中世の始まりは、鎌倉時代(12世紀~)以降とされているので、実に700年もの違いがある。
また、ドイツやスカンジナビア諸国には古代はなくて、中世から歴史が始まるという。

本書では、宮崎市定ら京大学派の「中国史」の時代区分を使って、今の歴史教育で用いられている時代区分を、著者特有の言い回しで、(いわゆる)東大学派が主導する既存の日本史の時代区分を執拗に批判し、自説を展開していきます。

ここで面白いのは、「ヨーロッパ史および中国史」vs「日本史」という比較で、大風呂敷を拡げて、古代と中世の区分について、述べていることです。
特に、地球の寒冷化がユーラシア大陸を覆った時に、大陸の西では、北方遊牧騎馬民族のフン族がゲルマン民族を圧迫し、彼らの大移動を引き起こし、東では匈奴の中国侵略ということに繋がてゆく。そしてその民族移動が、東西の古代文明の崩壊へと繋がり、中世へ移行していったという論理展開は、話としては壮大で、とても面白い発想です。
そして著者はヨーロッパと中国の時代区分からみて「日本に古代はなかった」という結論に辿り着く。(ここでも中国での古代と中世の時代区分の議論が別途あります)
恐らく、日本史や中国史の専門家では、このような発想での本は書けないだろうなと思うほど面白い論理展開のしかただと思います。

余談で、面白いのは、京大学派とされる梅棹忠夫や関西人代表のような司馬遼太郎が、京大学派の主張する時代区分に与しないで、中世は鎌倉時代から始まったとする東大学派と同じ発想をしていることを、嘆き悲しんでいる。(まあ話を面白くするためのポーズかもしれませんが・・・)

ただ、注目したいのは、東大教授で中世史専門の本郷和人氏が、別の本で下記のように書いています。(私が本書を読むきっかけになった記述です)
「(日本の)古代を無理やり設定する背景には、戦前の皇国史観の影響があるのではないか。国際日本文化研究センターの井上章一教授が書いた『日本に古代はあったのか』という著書は説得力があるだけに、私にとっては衝撃の一冊であった」
という訳で、本書は単なる与太話ではなさそうである。