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2022年4月30日土曜日

読書 「日本人の内と外」司馬遼太郎・山崎正和(対談)

著者:司馬遼太郎・山崎正和(対談)
出版:中公文庫

碩学の二人が、日本とは何かについての対談であるが、テーマが広すぎて纏めるのが難しいので、目次だけを列挙しました。
Ⅰ日本人論の成立 
Ⅱ日本の性格
Ⅲ都と鄙の文化
Ⅳ日本人の典型
Ⅴ日本人の自己表現

本のあらゆる箇所に赤線を引きまくって、纏められないというか、纏められるほど単純な内容ではないので、以下の二人の言葉を紹介しておきます。

山崎:これだけ日本人論が盛んになっても、最低限の言葉による自己表現を持っていないことだと思います。言葉以前の了解はあり過ぎるほどあるので、日本人たるものがなんであるかということは無意識の層でははっきりしている・・・(略)・・・結局、われわれが言葉でわれわれ自身を知っていないことではないでしょうか。これまではそれでも良かったのですが、日本が国際化してくる時代の中で最大の問題になってきたような気がします。

司馬:言葉で、日本および日本人とはなんぞやということは、もう不可能に近いですね。

この対談は、1978年に行われているが、現在二人が対談をやれば、どのような内容になったのか? 
読者として、二人の膨大な知識と見識に触れることで、幸福というか豊かな時間に浸っている感じです。山崎と司馬のファンにはお薦めの一冊です。

2022年4月24日日曜日

読書 「女のいない男たち」 村上春樹

               ドライブ・マイ・カー他


著者:村上春樹
出版:文春文庫

村上春樹にはこれまで興味がなかったので、一冊も読んでいないのですが、「ドライブ・マイ・カー」の映画が評判になったので、そのオリジナル小説を読んでみました。
6つの短編からなり、「ドライブ・マイ・カー」はその一つ。
「イエスタディ」以外は、どれもそれほど面白い感じは持てなかったし、意味もよく分からない。「ドライブ・マイ・カー」も同じ。
映画は3時間と長い上映時間だが、小説の「ドライブ・マイ・カー」は50ページの短編小説なので、これをどうやって3時間もの映画にしたのか、やはり映画を観ないとわからない。ネットで見ると映画はこの1作だけでなく、他の2作を部分的に組み込んでいるとか?

日本ではノーベル賞に期待の集まる村上春樹だが、この短編集を読んだだけでは、それほど凄い作家とは思えなかった。

《追記》「イエスタディ」は、ビートルズのこの曲に関西弁の歌詞を付けた男の物語であるが、その歌詞には笑ってしまった。
(関西弁で)♪ きのうは/あしたのおとといで~/おとといのあしたや~♫

2022年4月22日金曜日

読書 「夫開高健がのこした瓔」 牧洋子

               開高健の奥さんは悪妻か?


著者:牧洋子
出版:集英社

前回の4月20日の私のブログの最後で、「谷沢永一(以下谷沢)は後に、『回想開高健』の中で、妻の牧洋子を「稀代の悪妻」と断じていると述べた。
谷沢以外にも「牧洋子悪妻説」は世間に流布されており、ここまで悪妻と言われる牧洋子夫人(以下牧)に興味を覚え、本書を手に取った次第です。

牧の経歴や谷沢のいう「悪妻」説はWikipediaに掲載されているのを以下に要約しました。
開高健の妻となる牧は、1923年大阪生まれ、奈良女子師範学校物理化学科(現、奈良女子大学)を卒業して、大阪大学の助手を経て、壽屋(現、サントリー)の研究室に勤務。谷沢主宰の同人誌「えんぴつ」で7歳年下の開高健と知り合い、1951年に結婚。開高の壽屋入社と入れ違いに退社し創作活動に入る。詩のほか料理に関するエッセイが多い。
谷沢は著書『回想開高健』の中で、牧を稀代の悪妻だったと描き、最初牧とは結婚するつもりのなかった開高が妊娠した牧から鬼のようにせがまれて結婚したことや、杉並の自宅の妻子から逃れるように開高が茅ケ崎に自宅を建てたこと。さらに別の著書の中で、開高は鬱病だったが牧から逃れるため南米などへ釣りに出かけ、飛行機が離陸するとからっと鬱が治ったと書いた。
ただ一方で、開高は生前に谷沢に安易に人を批判しすぎると訓戒したことがあるという。

一方、開高はというと、自らの著書の「夜と陽炎」の中で、夫婦喧嘩のことを面白おかしく書いている。
「酒がたっぷりまわった頃になって妻が叫びはじめたのである。ついで娘が叫びはじめた・・(略)・・何事だ。なめるのもほどほどにしろ。女房子供をほったらかしてあっちこっちほっつき歩いて。てめエの家を母子家庭みたいにしておいて、よその国の切った張ったを覗き歩いて、ご大層なこと書きまくりやがって・・というのであった。隠忍また隠忍のあげくの炸裂だから声は壁をふるわせ、精力はほとばしるままに部屋を右へ左へ突っ走った・・・(略)・・・よせばいいのに血のなかでぶどう酒が沸騰するので、ついつい、たいていの小説家は放浪を終わってから家庭を持つんやがおれはそれを何しろ学生のときにやってしもて、いわば春に目覚めたとたんに墓場に入ったようなもんやからといいかけ、ハッと気がついて黙ったときはもう遅かった。妻が叫んだ・・・以下省略」

むろん、夫婦のことは2人の間にしかわからない。
「夜と陽炎」に書かれているように、開高が家の事をうっちゃって海外を飛び回っていたのは事実であり、奥さんの不満が募るのも自分で理解していたから、人の目に触れるのを承知で、読者へのサービス精神と自分の懺悔も込めて公表したのかもしれない。

本書に彼女の「夫開高健の蟲」という短いエッセイが掲載されている。これを読むと開高との関係性や夫からの評価を素直に喜んでいるのが分かる。
「がんに倒れる前年も、開高は相変わらず多忙な日々を過ごしていた。ある日、取材にむかう新幹線で読むからと、(彼女の)最新詩集「聖文字 蟲」を持っていった。
かねがね一つの屋根の下に二匹の蠍(さそり)が共存するには、たがいの活字に不干渉であることを言い立て、言い通してきた男にしては珍しい行動だったが、数日後、帰宅した開高は詩集を開き、ここがいいねえ、と『すだく虫の』の最終章を示した。
  独り 湯舟につかれば
  歳月駸々(しんしん)
  湯水は零(こぼ)れて
  仄明かりの隅に躍る影 一つ
    小さな 声立てぬ虫よ 集(すだ)かぬ
      おまえの名は カマドウマ

司馬遼太郎(以下司馬)は開高健の葬儀の弔辞で、「開高健的世界の中に・・・略)・・・知的ではちきれるように烈しい自己主張を持ちながら、死体のように自己を諦めきった饒舌の美女があり・・・」と表現し、開高最後の作品「珠玉」に触れ、「永遠の女性である阿佐緒(ヒロイン名)-おそらく牧羊子さんがその原形でありましょう」と。

開高家では、「二匹の蠍(さそり)が共存するには夫婦互いの活字には干渉しない」ということであるが、本書を読むと、牧は開高の文学を非常によく理解していたことが分かる。それであるから、開高の文学の「思想と文体」を一番理解してくれていると思った(谷沢ではなく)司馬に白羽の矢を立てて、代表としての弔辞を依頼したのではなかろうか。
知的で、はちきれるように烈しい自己主張を持つ才媛であるがゆえに、一般男性から見れば「悪妻」に見えるが、司馬はそのようには見てなかった。

本書のタイトルの「夫開高健がのこした瓔」について。
この「瓔(よう)」の字を調べてみました。白楽天の詩の中にある比翼の鳥の「さえずり」とあり、この比翼の鳥は、雌雄それぞれが目と翼を一つずつもち、2羽が常に一体となって飛ぶという中国の空想上の鳥で、夫婦の仲のよいことにたとえられる。
「瓔」は牧洋子が選んだ文字です。
開高健は死んで牧洋子一人のものになったのかも知れない。
その牧は孤独死で、亡くなってから数日後に発見された。2000年1月19日のことである。

2022年4月20日水曜日

読書 「悠々として急げ」追悼開高健 牧洋子編

      開高健の追悼集(司馬遼太郎他)



著者:牧洋子編
出版:筑摩書房

本書は、開高健(以下開高)への弔辞や文芸誌での追悼文を、開高の妻である牧洋子(以下牧)が編纂したものである。二人は谷沢永一主宰の同人誌で知り合い結婚した。当時開高はまだ大学生であり、牧は詩人で、7歳年上の姉さん女房であった。
牧が本文の「あとがき」を書いているが、女性らしからぬ硬質なしっかりとした文章に驚いた。

開高の葬儀は1990年1月12日に青山葬儀場で執り行われ、冒頭に何故か、司馬遼太郎(以下司馬)が23分間に渡る長い弔辞を読んでいる。
開高と司馬の関係は、弔辞の中でも述べられているが、司馬の言葉を借りれば「縁うすきかかわり」であった。が、牧のたっての依頼で「郷里を代表」して司馬が受けたものである。

脱線するが、この二人については、二人を担当した週刊朝日の編集者の言葉を思い出す。「共に同じ大阪出身であり、サービス精神が旺盛で、話術が巧み、文章もユーモラスなところは共通しているけれど、開高さんは純文学の意識が強く、文体も濃密な印象が強い。一方司馬さんは文体がとにかく平明でした。どんな難しいことでも司馬さんが書くとわかったような気分になってしまう」

ただこの日の司馬は、いつもの平明な文章ではなく、推敲に推敲を重ね、人を魅了し圧倒するような弔辞であった。
司馬は、まず、開高における独自の文体に触れ、「『日本三文オペラ』以降、大地に深く爪を突き刺して掘りくずしてゆく巨大な土木機械を思わせるような文体を創造した」と述べ、そしてその文体が「妖怪のような力を見せた」のが「夏の闇」だったと指摘した。そして「夏の闇は名作という以上にあたらしい日本語世界であり、開高健はこの一作を頂点として大河になり、後世を流れ続ける」と絶賛した。
そして「開高健的世界」には「ヴェトナムがあり、戦場の死体があり、グルメ的崇物主義があり、マグナム瓶のワインがあり、また知的ではちきれるように烈しい自己主張をもちながら、死体のように自己を諦めきった饒舌の美女があり、さらには中部ヨーロッパの都市の汚い路地の奥の酒場があります」と、開高のこれまでの作品群を彷彿させる言い回しをしている。具体的に言ってしまえば「ベトナム戦記」「輝ける闇」「オーパ!」「ロマネ・コンティ・一九三五年」「夏の闇」等々となってしまうのを、間接的に内容のエッセンスをさらりと述べる巧い表現をしている。
最後は、「(遺作の『珠玉』を踏まえて)大兄(開高)の文学もその生涯も、吹き込んでくる霰のように、かぎりなく美しいものでありました」と結んだ。
流石に司馬の面目躍如という感じである。
司馬は開高とは「縁うすきかかわり」だったかも知れないが、開高文学の最高の理解者であったことは、間違いないようだ。

私のうがちすぎな見方かもしれないが・・・この弔辞を読むと、牧が敢えて「縁うすき」司馬に弔辞を依頼した意図が透けて見えるようでもある。
兎に角、この追悼集でも、冒頭に司馬の弔辞があることが、大きな重しとなっていることは事実だ。

一方、開高とは40年来の付き合いで、なおかつ開高と牧のめぐりあわせの縁を取り持った同人誌を主宰していた谷沢永一(関西大学名誉教授)は2番目に弔辞を読んでいるが、じつにあっさりしたものだった。
この谷沢は後に、「回想開高健」の中で、牧を「稀代の悪妻」と断じている。これについてはここでは触れない。

2022年4月18日月曜日

読書 『細雪』とその時代 川本三郎

                      『細雪』とその時代


著者:川本三郎
出版:中央公論社

「細雪」は昭和11年11月から昭和16年4月までの約5年間の物語である。当時既にモダンな都会であった神戸・芦屋等を舞台にした女たちの物語であり、戦争のことは避けて書いてあるが、背景には戦争が忍び寄ってくる気配が感じられ、そこには姉妹たちの本家がある船場の老舗・蒔岡家の没落と重複させている。

著者は「文芸評論の楽しさとは、大きな論を語るより、細かい註をつけてゆくことにある」と、本書の細かな時代背景の描写や注釈を見るにつけ、楽しく書きあげたようだ。

当時大阪は、大工業都市「東洋のマンチェスター」と呼ばれるようになったのに引き換え、空気が汚れ住環境に適さなくなってきた。それに合わせて職住分離が進み、蒔岡家の次女の幸子と貞之助夫妻も芦屋に住んでいる。そこに三女の雪子と四女の妙子が居候をし、女たちの園と化す。
そして彼女たちが出かけていく神戸の街が鮮やかに描かれている。注釈の中でも私事になるが神戸に縁がある関係、その記述に注意がひかれる。
国際的な港町神戸は、舶来品が入ってくるハイカラの街で、トアロードや南京町はエキゾチズムをかきたてる。
三女雪子の見合いの場所は、当時最もモダンなオリエンタルホテルであり、そしてこの街にはドイツ人やロシア革命で亡命してきたロシア人等外国人が多く住み、芸術サロンや新しい店がオープンした。今も残っている「ユーハイム」「フロインド・リーブ」「ゴンチャロフ製菓」「モロゾフ」等々。また日本人経営だが谷崎が命名したステーキの「ハイウェイ」(この店は阪神淡路大震災で被災して廃業。ここのステーキは最高に美味であった)

「細雪」の第1回と2回は、昭和18年の中央公論に掲載されたが、その後は時局に相応しくないとして陸軍省から発表停止処分にされている。谷崎はその後も弾圧に屈することなく戦時下も密かに執筆を続けた。失われてゆく良き時代の白鳥の歌として書いておきたいとの谷崎の気迫が、この小説を美しく豊かなものにしていると著者はいう。

細雪は何度か映画化やTVドラマ化されているが、私は市川崑監督の「細雪」(出演:岸恵子・佐久間良子・吉永小百合・古手川祐子)がことのほか気に入っている。この映画を見ると、日本の美の極致が描かれていると感じる。

2022年4月14日木曜日

読書 「あなたに語る日本文学史」 大岡信

      あなたに語る日本文学史



著者:大岡信
出版:新書館

著者は30年近く新聞紙上に連載された「折々のうた」で知られる詩人・評論家である。
本書は、ハードカバーで600ページ近くあり、そのボリュームに圧倒され長く積読状態が続いていましたが、著者が数年前に亡くなり、読む気力が湧いてきたというか、読書圧力?がかかってきて、やっと本を開いた次第です。

内容は語り下ろしになっており、非常に読みやすく、かつ文学の歴史の知識の羅列ではなく「何が面白いか」に重点が置かれているので、読みだすと一気に読めます。こんなに面白いのならもっと早く読めば良かったと思った次第です。

これまで日本文学史というと、源氏物語、枕草子、徒然草、方丈記、平家物語等々の読み物が中心というイメージがありましたが、本書は詩歌を基軸に文学史を捉えています
著者が詩人なので、そういう視点かなと思いましたが、そうではなくやはり日本文学は詩歌が基軸になっているのが、この本を読むとよく理解できます。

日本文学は、貴族主義的な文学を中心に考えて来た関係で、どうしてももう一方の散文精神、コミカルで場合によっては悲劇的で、総じていえばドラマティックな要素を持つものを、全部二流のものとしてきた。なぜなら歌論がすべての文学形式の中心にずっと居座っていた。歌論で絶対的な権威を持っていたのは、紀貫之を始めとする各時代の指導的な歌人たちが繰り返して言っていた、「花実兼備」「心詞一体」、つまり花と実が一体化していないと最高の文学ではないという考え方が支配していたからで、散文は実の方に傾くので、どうしても下になってしまう。
日本文学は外国の文学と比べて、散文より和歌の権威が圧倒的だったのでそのような傾向になったが、その和歌の権威が圧倒的だったのは、勅撰和歌集が五百年もの間最高権威だったことによる。勅撰和歌集は天皇の命により編纂されることなので、天皇制というものが日本の文学のひとつのスタイルを作ったといえると著者はいう。

一方、連歌、俳諧、茶道、華道というものは上記の「花実兼備」の心をいちばんにしていたので、この流れの中にある。ここから外れるのは文学でいえば散文だけになる。
そして我々の批評眼も鑑賞眼も全部「花実兼備」を理想としている。だから、実ばかりを重んじるようなもの、あるいは真実において優れているものは、どちらかといえば二流だと思われる傾向があった。「後撰集」「後拾遺集」「大和物語」やありとあらゆる歌謡、お伽草子など全部二流になってしまう。過去に二流といわれてきたものは理想主義というより、現実主義なものが多い。現実主義だから、ゴシップなどを重んじる、つまり同時代に起きたことを戯画化する。それは下品と思われたに違いないが、面白いものが多いと言う。

また小説の成り立ちについても興味が湧いた。
窪田空穂(1877-1967)が「伊勢物語」について、最初にこれは歌物語であり、小説だと主張したことを紹介している。それ以前は、同書は歌のお手本で、小説とは思われてなかった。
歌集の和歌には詞書(ことばがき)というものがあります。詞書とは、和歌(や俳句)の前書きとして、その作品の動機・主題・成立事情などを記したもので、これを読めば和歌の内容の理解がより深くなるように書かれたものです。
この詞書が当初は「誰々に」「何々に」としか書かれていなかったが、だんだん増えて五行、十行となる。そしてこれがどんどん膨らんでいく。詞書と歌を併せて読むと、じつに面白い物語の世界の原型ができている。
そういう意味で、「伊勢物語」や「大和物語」では、歌の詞書がどんどん膨らんでいって、物語に移っていくのを示している原型的な世界がある。そしてやがて歌が取れて「源氏物語」のような物語になっていく。
このプロセスを書いている箇所は読んでいて、非常に面白い。

蛇足:<伊勢物語に関連して> 平安時代の最大の歌人のひとりである「在原業平」は、漢文で書かれた正史のなかで「ほぼ才学なし」と書かれている。これは菅原道真が書いたと言われている。この才学というのはこの場合、漢学をさす。和歌も上手く気立ても良く美男で、女性の憧れの男だったが、役所の仕事で使う漢文が出来なかったために菅原道真からは、白い目で見られて出世も遅れたのだろうか。逆の見方をすれが、業平の場合は、出世欲がなく、和歌と恋によって世の中を謳歌したのかも知れない。

他に「政治の敗者はアンソロジーに生きる」「女たちの中世」「写生は近代文学のかなめ」等時間が経つのを忘れるほど面白い読み物でした。

2022年4月4日月曜日

街道を撮りにゆく 2022 彩の国・元荒川の桜

      撮れたての桜です4/1晴・4/4氷雨



埼玉県蓮田市の元荒川沿いの桜です。ここの桜はガイドブックにも載っていませんが、川の両岸に古木の桜並木が続き、隠れた穴場です。
今年は4月1日は晴天、4月4日は氷雨と目まぐるしい天候が続いています。
以下、晴れの日と雨の日の桜をご覧下さい。

UFO出現???

高級スポーツカーの屋根に写った桜です。

水たまりに映った桜

以下4月4日の氷雨の桜です。



















以下4月4日の氷雨の桜です。
あぶくの中に桜の花があります

















2022年4月3日日曜日

街道を撮りにゆく 2022東京・深川の桜

     「お江戸深川さくらまつり」の復活


コロナ禍の影響により休止されていた「お江戸深川さくらまつり」は、今年2年ぶりに復活しました。
隅田川に繋がる大横川・仙台掘川・小名木川は江戸時代に埋立地の間の運河として造られ、当時は交通の足として重要な位置を占めており、現在はこの河畔には艶やかに彩る桜が連なっています。
気象庁から2022年3月27日に東京の桜の満開宣言が出た直後の3月31日に当地を訪れました。丁度満開のピークかやや過ぎた感じで、強い風が吹くと散り始めていました。
以下隅田川および深川の桜をご覧下さい。

隅田川の桜






























これより深川の桜








花筏


強い風が吹くとこのような花筏が見ることが出来ます。