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2022年5月30日月曜日

読書 「厭書家」の本棚 山崎正和

著者:山崎正和
出版:潮出版社

著者は、自身を「厭書家」と称する。我々からすると想像を絶する読書家であり、本の真贋を見抜く目利きである著者が敢えて自分のことを重症の「厭書家」というのは、一種のレトリックである。そうでなければ本書に収めた78冊もの書評が書けるものではない。

1973年に書かれた「脱工業化社会(ダニエル・ベル)」のような懐かしい本の書評があるかと思えば、日中両国の文学史、美術史さらには生活史を渉猟した「美女とは何か-日中美人の文化史(張競)」、さらに適当に権力者に対して迎合もし、個性強烈な弟子たちを巧みに操縦して、「蕉門」を率いた現実主義者の肖像を描いた「悪党芭蕉」、その他「思考のエシックス(鷲田清一)」「書斎のポトフ(開高健・谷沢永一・向井敏)」等、政治・経済・哲学・宗教・芸術等々のあらゆる分野、かつ時間軸を超えて、古今東西の広範囲にわたり、硬軟織り交ぜての著者のカバー範囲の広さに驚かされる。
寝る前に、この書評を読んで次に読む本を探すのもまた愉しい。私の時間の過ごし方に幅ができた。

追記
「新訂 方丈記(鴨長明 市古貞次校注)」から
無常観を痛感した鴨長明が俗世を捨て、方一丈の庵を結んで隠遁したところまでは、誰もが知っている。だが意外と指摘されていないのは、簡素を極めたその庵が、じつは優雅な王朝文化のミニチュアだったという事実である。壁に仏画を掛け、経典を飾るだけでなく、皮籠には和歌と管弦の書物を収め、琴と琵琶まで備えつけた。この庵の主はさながら貴族趣味の権化である。山崎は「自己の文化と趣味に対するこの自信」を感じ取って、そこに災害や戦争があるとすぐに騒ぎ立てる現代人とは一味違ったしたたかな鴨長明を見たようである。

2022年5月22日日曜日

街道を撮りにゆく 平林寺の青もみじ

      武蔵野の禅刹・平林寺の青もみじ

YPCのTさんが平林寺を紹介され、良い雰囲気だったので、久々に青もみじを観に行きました。
ここは武蔵野の雑木林の面影が残っているということで、学生時代に訪れたことがありますが、冬だったこともあり雰囲気が全く変わっていました。
今は武蔵野の雑木林というより、もみじの古刹という感じです。埼玉でこんなに綺麗なもみじを見ることは驚きです。しかも広い境内には殆ど人がいません。
以下写真で青もみじをご覧下さい。





























































2022年5月16日月曜日

読書 司馬遼太郎の跫音(中央公論追悼号)

著者:司馬良太郎追悼号(司馬遼太郎他多数)
出版:中公文庫

司馬遼太郎(以下司馬)が亡くなってから、既に26年が経った。
司馬の訃報に接した時、私の読書仲間の大先輩は「一度も会わず、一言も喋ったことのない人が亡くなって、こんなにショックを受けたのは初めてです」と言った記憶が蘇ってきた。
私も司馬の長編小説に没入した若かりし頃の記憶が鮮明に残っています。
本書の700ページ以上もある厚みに恐れをなして、積読状態が長らく続いていましたが、読む気力のあるうちに読んでおこうと思いやっと重い腰をやっと上げた次第です。内容は単なる追悼文というより、本格的に司馬文学を論じたものが多く面白かった。

松本健一(大学教授・歴史家)
「歴史は文学の華なり、と」
「司馬を国民作家とよび、無内容なオマージュをささげる人々は、司馬の作品を文学として認めていない。つまり司馬の歴史小説を文学ではなく、歴史そのものと信じている・・・司馬はイデオロギーやそれに支配された政治を嫌う。いわゆる司馬史観は そのようなイデオロギーによって導き出された歴史観ではなく、司馬が歴史上の好きな「漢(おとこ)」を描くという美学によって成立している・・・司馬は歴史小説というフィクションを書いたが、そのためには出来る限り 事実に細心であろうとした。そうしないと事実の内側にひそむ物語がおのずから浮かび上がってこない、と考えたからである」

※これは司馬ファンが陥りやすい陥穽を言い当てていると思う。極端な言い方をすれば司馬は自分の美学にそぐわない事実は取り上げていない。これはフィクションを描く小説家の権利でもあり、作家の価値観が現れるものである。
司馬は歴史上の好きな漢を描くと上述したが、私の知る限り少数の例外がいる。それは源義経乃木希典将軍(あるいは晩年の西郷隆盛)である。義経についてはこの戦の天才の政治音痴に呆れており、乃木希典は日露戦争の203高地で同じパターンの突撃を命じ、その無能な指揮ぶりで4千人近い死傷者を出した。それまで軍神や忠君愛国の士と崇められていた乃木への評価が司馬の作品(殉死・坂の上の雲)により完全に破壊された。乃木に対して厳しいのは、太平洋戦争で突然徴兵され、死ぬかもしれない薄いブリキの戦車に閉じ込められた下士官(司馬)の目から見た総司令官の非合理性への怒りかも知れない。

五百旗頭真と山崎正和の対談(五百旗頭:政治学者、山崎:劇作家)
「『司馬史観』と日本史文学」
司馬文学を論じ合った後に、山崎は言う「司馬さんというのは、歴史文学を書き、歴史と共に生きた人なんだけれども、どこかで歴史というものを信じてなかったと考えるんです。それの集大成が『草原の記』・・・ローマ人は滅びた後に、巨大な遺跡を残し、巨大な法を残し、思想を残した。それに対し、蒙古人は不思議な民族で、大帝国をつくるけれども、ほとんど何も残さず消えてしまった民族です。したがって後世の風景を汚さず、何らかの思想だとか哲学だとか、そういったものを残さず、したがって後世の心を汚さず、鮮やかに消えて行った。風のように流れて、生きている・・・だから私は(私の言い方による)逆説的無常観を彼(司馬)が正面から書いた小説を読みたかった。『草原の記』には、その片鱗が現れており、いろんな意味で、司馬文学を凝縮したような作品だと思う」

丸谷才一(作家)
「司馬遼太郎論ノート」(この司馬論は、司馬の生前に書かれたようだ)
小説家という同業者でもある著者は、時系列的にまた立体的に司馬作品を腑分けするが如く分析して司馬の小説のユニーク差を炙りだしている。
吉川英治等の過去の国民作家と称されている作家との最大の違いを、司馬の作風が本質的に喜劇を狙っているからと断ずる。(この見方は恐らく逆説的な意味だと思います)
丸谷才一「司馬は人間といふ社会的動物の生態を不思議がったり喜んだりしながら、その滑稽さを存分に味わひながら、しかしやみくもに非難したりせず、寛容な心で彼らを眺めてゐる」そして「その人間に対する関心が知的で乾いてゐて、社会を覚めた態度で観察してゐるため、登場人物はおのづから喜劇的世界に置かれてしまふのだ」という。さらに、「彼が過去へさかのぼつたのは、彼らと比べて遥かに強い批評的な意識によるもので、実は現在へと戻って来るためだつたからである。彼が歴史を探るのは、彼の(徴兵された)青春へとたちかえるためでもあつた」そして「司馬の小説は明治までは成功するが、近代日本を扱ったものは総じて劣るやうな気がする・・・それは近代日本に対して司馬が異和感をいだきつづけてゐるとゐふ事情に由来する・・・最近の司馬は、かういふ問題に当惑しながら浮かぬ顔をしてゐるやうに見受けられる。そして不謹慎な言ひ方を敢えてすれば、その困り方には何かひどく風情がある・・・わたしはその風情をじつくりと味ははうとして、この一文を草した」と結んでいる。

下河辺淳(元国土事務次官:日本の都市計画家)
「司馬さんの『土地公有論』を考える」
バブル期の土地の高騰に対して司馬と著者とのやり取りから、司馬の言う「公」の真意を語っている。
※最近話題になっている官僚とは一味違った、過去?の日本の官僚の義侠心が感じられる。

司馬遼太郎(「国会等移転調査会」での司馬本人の発言議事録)
「千年の遷都論」
旧国土省事務次官であった下河辺淳がこの調査会での発言は貴重なもので、このまま議事録に眠らせるのはもったいないと思い、旧国土省と交渉して本書に掲載したそうだ。バブル時の土地問題への司馬の憂国の情が読み取れる。

《追記》
当時の私の読書録を引っ張り出してみると、1996年には、司馬遼太郎以外にも遠藤周作、高坂正堯が亡くなっており、好きな作家・政治学者が相次いで世を去った寂しさを綴っていた。