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2022年2月4日金曜日

読書 「俳句と人間」 長谷川櫂

     「死」を意識した俳人の思索の記録


書名:俳句と人間
著者:長谷川櫂

本書は、岩波書店の月刊誌「図書」に2年間にわたり連載されたエッセイ「隣は何をする人ぞ」を新書に纏めたものである。
著者との縁は、これまでに「俳句的生活」「古池に蛙は飛びこんだか」「子規の宇宙」「海の細道」などの本と共に、カルチャーセンタで2012年12月~2016年9月の約4年弱にわたり著者の「『奥の細道』をよむ」の講座を受講するなどした。

話は脱線するが、この講座は、1回の講義でテキストの「奥の細道」の文章でいえば10行程度しか進まない。そこに書かれている事柄の背景や関連事項が講義のメインであったので、いろんなテーマ(「元禄時代は日本のルネサンス」「歌枕の意味や成り立ち」「東北にみる古代仏教と新興仏教の広がり」「中華本流の南宋文化の継承者は日本」「『万葉集~折々のうた』までのアンソロジーの系譜」など)に広がり、大変面白かった。時には著者が自ら書き下ろした能を、受講生がロールプレイで、それぞれの役に分担して読み上げることもあった。

本題に戻る。
人間は必ず死ぬ定めであるのは自明の理だが、若い時は命の歓びに目がくらんで、目の前の「死ぬ」という鉄則が見えない。しかし「あるとき」人間は自分の命もやがて終わることに気づく。著者は2018年に皮膚癌が見つかり、その「あるとき」を意識しだした。さらに翌年からコロナウイルスの猛威によって、この「あるとき」は誰にとっても日常のものとなってしまった。
本書は、著者が直近2年間のその時々に感じたことを、小説、和歌、俳句を縦糸にして、生と死、天国と地獄、民主主義の挫折、時代精神の変遷から身辺雑事まで多岐にわたっている。死が身近に感じられるような環境の中で生まれたエッセイは、これまでと違い背景に怒りや、また死に対して真摯に向き合う姿勢が感じられた。
このような多岐にわたるエッセイなので纏めることは難しく、面白かったテーマを以下に抜粋してみました。

《時代の空気について》
 「子規が生きた明治は国家主義の時代だった。天皇から庶民にいたるまで誰もが国家建設の役に立つ人間『有為の人』になることを求められた。国家という理想が日本列島の空に2つ目の太陽のように輝いていた。これが子規が生きた明治の空気だった。『国のために生きる』という明治の国家主義が、やがて『国のために死ぬ』という昭和の国粋主義に変質してゆくのだが、これはまたあとの話である・・・略・・・国家主義という明治の空気。これがわからなければ、子規の俳句も文章もわからないだろう・・・略・・・晩年、短歌の革新に乗り出した子規は和歌の聖典とされてきた『古今和歌集』をこき下ろし『万葉集』を賛美する・・・略・・・じつはこれにも裏がある。明治政府は新時代の天皇親政のモデルをヨーロッパの王国だけでなく、日本の過去の政治形態にも求めた。やっと探し出したのが奈良時代の聖武天皇時代の政府だった。子規は明治政府の大方針と足並みを揃えるように平安時代の『古今和歌集』をけなし、奈良時代の『万葉集』をほめたたえたのだ。子規にとってそれが文学の世界で新国家建設の役にたつ『有為の人』となることだった」

《人間の本性と文学について》
 「高校生や大学生に文学の話をするとき、いつも困るのは彼らが人間の本性についてあまりにも無頓着なことである。『本当はみんないい人』『誰でも仲良しになれる』とどうも本気で思っているところがある・・・略・・・この手のおめでたさは文学にとって致命的である。なぜなら『みんないい人』なら文学はいらない。
そこで文学の話をするときは、人間の話をすることからはじめることにしている・・・略・・・その第一が人間は欲望の動物であること。その欲望の最たるものがお金と性・・・略・・・その欲望に翻弄され、互いに争い、その言い訳に終始する人間、その滑稽な姿を描くのが文学ということになるだろう。人間の根源にあって人間を突き動かす二つの欲望、お金と性こそが文学の永遠のテーマなのだ。この文学の基本的な性格がぴたりと当てはまるのが夏目漱石の『こころ』なのである。この小説はまさにお金と性に弄ばれる人間の滑稽な姿を描いている」

《恋と愛について(大和言葉と漢字)》
 「(過去の和歌を見ると)男も女もあれほど恋の達人であり猛者であったのに、一方、愛となると日本人ほど疎い人々も少ない。友愛・博愛・人類愛・家族愛・夫婦愛でさえどこかかしこまってやけによそよそしい。日本には愛が存在しなかった。それがわかるのは『こい』は訓なのに『アイ』は音だからである。つまり『こい』という言葉は漢字が伝わる前から大和言葉としてあったが、『アイ』は漢字の愛として中国からはじめて伝わった・・・略・・・愛ということばがなかったということは愛という言葉で表す愛という実体もまたなかったいうことである。古代のこの欠落が長く尾を引いて日本人はいまだに愛の意味がよくわからないのではないか」

他に気になった点が一つ。
《「司馬史観」について》
著者は「司馬史観」には盲点があるという。司馬遼太郎は日露戦争に日本が勝ってしまったがため、それまでひたむきだった日本人が奢れる日本人に変わってしまったという日本人突然変異説に与せざるをえなくなるという。
これは明らかにおかしいと思う。司馬遼太郎は小説家で、歴史家ではない。そもそも「司馬史観」というのは、司馬遼太郎が言っている言葉ではなく、周囲の人間が言っている言葉である。
常々司馬は、小説の中のことが歴史的事実として受け取られている現象に対して、「私は歴史家ではなく小説家である」と苦笑いしている。その一例として「竜馬がゆく」はわざわざ坂本龍馬の「龍」の字を「竜」に変えて、主人公に自由な行動を取らせることが出来た。
前述の「日本人突然変異説」についても、司馬のエッセイや対談をよく読めば、そんな薄っぺらなことを言っていないことが、よく分かるはずである。