「イケズな東京」
著者:井上章一・青木淳
出版:中公新書クラレ
著者の井上章一氏(以下井上)は国際日本文化研究センター所長で、ベストセラーになった「京都ぎらい」の作者でもある。元々は建築史、意匠論が専門だったが、いまは風俗史や関西文化論など幅広く手掛ける。
一方の青木淳氏(以下青木)は、建築家であり東京藝術大学教授。ポストモダニズムの気質を残しつつ近代の思想を継承する建築家の一人と言われている。
タイトルからすると、両者の東京の都市論に関する対談・・・と思いきや???
恐らく編集者は「東京・京都などの街かどから都市や文化を考える」という主旨の二人の対談を企画したようだが、コロナ禍で対談ができなくなり、「個別の論考」「対談」「リレー・エッセイ」等が入り乱れ、個別には面白い箇所もあるが、テーマとしての纏まりのないバラバラな内容の本となってしまった。
テーマの統一感のなさに内容に文句をいうより、コロナ禍の被害を受けた編集者に同情すべきか???
ただ、都市景観に関する考え方の議論は興味をひいた。
井上がパリの整然と落ち着いた街並みと比較して、姉妹都市である京都の四条河原町の街角から眺めは、都市景観を無視したような色や形のばらばらな街並みが見えてくるという。
またイギリスの建築家を大阪道頓堀のネオン街に案内したら「ここは何をやってもいいところなのか。ヨーロッパではありえない表現の自由がこの界隈にはいきづいている」と大感激・・・(この道頓堀の無秩序さを笑いに転じた話は、受けを狙っているのか井上は別の書き物など至る所で使っている)
これを受けて青木は、日欧の都市景観の考え方の差を、歴史的に、また生活様式の違い等からじっくりと比較している。
かつては日本にも「町式目」があり、町家の「表構え」のデザインも事細かく決められ、町ごとにひとつに統一された「町並み」という言葉があった。それが近代以降、日本では人々が郊外に住むようになり、仕事場と住まいが分けるようになって、コミュニティが希薄になり、町への帰属意識がなくなったのが、都市景観が崩れた理由として挙げている。
(この青木の職住分離説は谷崎潤一郎の「細雪」を思い出す。大阪の船場を離れて六甲山麓のモダンな神戸や芦屋で生活する蒔岡家の分家・幸子達を彷彿させる)
一方、西欧の都市建築は石造りで、階を重ねる作りになっており、一つの建物には多くの家族が住んでおり、それぞれの居住空間から一歩でれば、皆のものだという共有意識が、都市景観の考え方に繋がって行ったという。
だが、日本においても、近年東京を中心に再開発が進み、雑然とした界隈が、スッキリと清潔な街区に変わって、広場のようなオープンスペースも増えた。これは100年前に近代建築が思い描いた理想の都市だった。しかしこれは大規模資本が統べる統一体になって実現できたことであり、これを近代化の成功として見て良いのかどうか悩ましいところであると言う。
井上には建築史家という肩書があるが、本人も言っているように「私が建築の勉強をしたのは1980年代まで」というように、現役の建築家であり東京藝術大学教授の青木に比較すると、オーソドックスな建築の話に関しては見劣りがする。やはり井上は風俗研究家と言った方が相応しいし、捻ったものの見方で人を翻弄することが巧い人だという感じがした。それに対して青木は正統派というか、オーソドックスに物事を捉えているのが印象に残った。