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2022年3月17日木曜日

読書 「日本文化の謎」 司馬遼太郎・丸谷才一

 日本文化の謎(司馬遼太郎対話集2「日本語の本質」から)


著者:司馬遼太郎・丸谷才一(対談)
出版:文春文庫

前回3月15日のブログで、司馬遼太郎と丸谷才一の対談が一つしか見つからなかったと書きましたが、その一つが今回取り上げた対談です。

対談のきっかけは「諸君!」(1971年1月号)で行われた座談会「日本人にとって天皇とは何か」(出席者:福田恒存・林健太郎・司馬遼太郎・山崎正和)が丸谷・司馬対談の伏線にあった。この対談では福田・林による「天皇―武人」のイメージと司馬・山崎の「天皇―文人」のイメージの対比が鮮やかに出たそうである。
この対談を読んだ丸谷が「ぜひ司馬さんと話したい」と申し出て、司馬が快諾して実現したものであるという。

この対談を読むと両者共に、がっぷりと四つに組んだ感じの非常に緊張感あふれる対談である。共に相手をかなり意識した対談である。その分内容が濃密であり、読み手にとっては面白い対談であった。

司馬にしても丸谷にしても山崎正和との対談では、もう少しゆったりとしており、山崎がいろいろと述べるのを、聞き上手という感じで受け止めている。
ところが、この対談では二人ともそういう感じはいっさいない。
理由として考えられるのは、司馬と丸谷はそれぞれ1923年と1925年生まれと、歳が近く、また小説家という同業者でもある。それに対して山崎は1934年生まれで、この二人とは10歳程度年下で、職業も劇作家と少し違うということが考えられる。

対談は丸谷の方から宮廷文化とう切り口で始まる。
それに対して司馬は王朝文化というのは余り知らないから聞き手に回ると言うのだが、全然そういう感じはなく、ドンドンと積極的に発言している。

対談は、・宮廷文化、・何故明治以降天皇は恋歌を詠まなくなったか、・天皇という言葉がいつから使われ出したのか、・天皇の政治関与というのは歴史上特殊な事件であり、幕末の志士が天皇を担ぎ出し明治維新を起こし、天皇を政治の表舞台に引き出したことは、後の太平洋戦争へ繋がっていく遠因の一つであるなどいう話に及ぶ。

面白かった話は、★中国の皇帝を理解するには「あれは官僚のトップだと考えれば理解しやすい」つまり猛烈ビジネスマンであり、対して日本の天皇は最高の神主である。よって、後醍醐天皇というのは日本史においては異様な存在であると。

★菅原道真は、あの時期に京都の朝廷がにわかに中国風の科挙によって秀才を登用しようと考えたために、平安朝でただひとり、庶民から出て位人臣をきわめる政治家となった。その成立の仕方は輸入のモダニズムによる。また彼は大宰府に流刑されたのではなく、単に左遷された(それもかなり高官として)だけなので、総理大臣が監獄に入ったわけではないから、それほど気の毒がることでもない。

★丸谷がある会合で、「大正天皇は非常に才能のあった人」という話を聞いた時に、「あの方はいろいろ問題があったのでは?」と質問したら、「いや、丸谷君、うんと優秀な人間がああいうつまらない商売をさせられれば、おかしくなるのは当たり前じゃないか」と言われたそうだ。これを読んで、ふと雅子さんの場合はどうなのだろうかと思った。

等々、話がいろんなことに及び、二人の博学にただただ驚き、また楽しく読んだ次第です。

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