フォロワー

2026年5月10日日曜日

読書 「明治維新の意味」北岡伸一

                躍 動 す る 明 治


著者:北岡伸一
出版:新潮選書

圧倒的な重厚感がありながら、かつ読みやすい本です。
日本外交史の第一人者にして、元国連大使、現在は国際協力機構(JICA)の理事長を務める著者の渾身の力作である。
逆に言えば、明治維新に関しての専門家ではないが、広い視野で明治維新の世界史的意味を解き明かしている。単に明治政府の国造りの困難さだけでなく、その前の時代である江戸時代の遺産から、当時の世界およびアジア情勢まで目配りが行き届いている。
明治維新というと「富国強兵」の印象が強いが、維新の本質は民主化であり、自由化であり、人材登用革命であると著者は言う。こうした迅速な改革が実現した要因として、著者は大久保利通、伊藤博文、福沢諭吉らに注目する。

日本の学界では、昭和の初め頃は、正当な歴史学は明治のような近い過去をテーマとして扱わないという考えかた強く、近代の研究に消極的だった。その間に、マルクス主義経済学の間で研究が進み、主流の「講座派」は「絶対主義の確立」と捉え、明治維新に否定的な評価だった。(学会の一部では「マルクス主義のカテゴリーに当てはまらない民族革命」という意見もあった)
(余談)上記の部分を読んで、司馬遼太郎の「坂の上の雲」は、当時では珍しく明治時代を肯定的に描いたため、多くの論争や批判が噴出したのを思い出します。

江戸時代の価値観が崩壊するなかで、短期間に東京遷都、版籍奉還から廃藩置県、廃刀禁止令や武士に変わる徴兵制度、地租改正、通貨の発行、鉄道の敷設、義務教育、その後の産業育成、憲法の発布と帝国議会の開設と矢継ぎ早に実施している。

その中で、大久保利通の存在は大きく、一部では大久保独裁といわれているが、日本の将来ビジョンを持ち、明治11年に暗殺されるまで、日本の抱えた重要な課題を背負って、殆ど一人で実践していった貴重な存在であった。西郷隆盛には将来ビジョンがなく、木戸孝允は理想主義者であった。大久保のように泥をかぶってまでやり抜く剛毅な精神がなかったなら、東京遷都~征韓論~西南戦争に至る難局を切り抜けられなかったであろうと著者は言う。
東京遷都は、 江戸は100万人の世界有数の大都市であり、将軍の居城(江戸城)がそのまま利用できるなど、インフラが整備されているという理由もあるが、大久保は、天皇を取り巻く公家は保守色が強く、明治になっても極一部を除き攘夷主義者が多数を占めていたので、天皇をそういう環境から切り離したかったというのには驚かされる。

面白いのは、この本の前半部分を読んでいて、あたかも司馬遼太郎の「翔ぶが如く」を読んでいるような錯覚に陥った。また大久保・西郷・木戸への評価も、見事に一致している。
政治学者と作家というアプローチの違いはあれ、解釈がシンクロしているのには驚く。「近代化のリアリズム」という共通の評価軸がそうさせたのかも知れない。

そして様々な経緯を経て、憲法発布や帝国議会の開設と進むが、日露戦争後に軍の独立性が進み、その後昭和になり、政党政治が難局処理に失敗した時、軍部が政治に進出していくのであった。またかつて自由民権運動を支えたメディアの変質もあり満州事変の勃発以後、大新聞は一斉にこれを賛美し報道した。
著者は、明治維新は確かに民主化であったが、民主化の行き着くところは大衆化であったと言う。リーダーも徐々に多数を取る事に勝れたリーダーや組織に利益をもたらすリーダーが、見識にかかわらず、組織を率いる事になった。
日露戦争以後、様々な集団において制度化、合理化が進み、それとともに、リーダーの凡庸化、平凡化が進んだと見ている。

著者は「あとがき」で述べている。
「明治維新を再検討してみて、もっとも印象的なのは、日本が直面した最も重要な課題に、もっとも優れた才能が全力で取り組んでいたという事である。国際協力機構(JICA)の理事長として、世界の途上国と向き合う時も、その国が直面する最も重大な課題に、もっとも優れた才能が全力で取り組んでいるかどうかが決定的に重要だと痛感している」

2026年4月24日金曜日

読書 「奏鳴曲ー北里と鷗外」海堂尊

       感染症と戦った二人の対立


著者:海堂尊
(「チーム・バチスタの栄光」の著者)
出版:文春文庫

〈あらすじ〉
明治時代に日本の感染症医学と衛生行政の確立に奔走した「細菌学の父」と呼ばれる北里柴三郎と、陸軍軍医総監にして文豪の森林太郎(鷗外)の知られざる対立や影響しあった事を描いた歴史医療小説です。

二人は「感染症から国民の命を守る」という同じ志を抱き、共にドイツへ留学し、世界的権威ロベルト・コッホの秘蔵っ子となる北里。その縁で森もコッホの下で学びます。帰国後、理想を掲げる二人は次第に道を違えていき、北里が民間の立場から実学としての細菌学を追及する一方、森は陸軍という組織の中で官僚的な衛生行政を担っていく。

結核菌やコレラ菌を発見したコッホ。その秘蔵っ子の北里もペスト菌や破傷風菌の発見、また破傷風菌の血清療法の開発等、世界的な学術成果を挙げた。
だが、北里は政府の官僚的な体質を批判したのが祟って、帰国後は冷遇され宙ぶらりんの状態であった。そこへ福沢諭吉が救いの手を差し伸べて私立の研究所を設立し、北里も活動の場を得るが・・・

一方の森は順調に軍隊での出世と作家としての才能を開花させるが、脚気(かっけ)問題では、後世に大きな汚点を残している。
当時は、脚気(かっけ)での死亡が深刻な社会問題となっていた。
陸軍では、脚気は細菌感染という考え方が主流であったのを配慮した森は、栄養学の観点から陸軍の白米食を理論的にバックアップし、海軍が採用した洋食+麦飯(麦と米の混合食)への切り替えを認めず、白米食を維持する立場を取り続けた。
その結果、日露戦争では、戦死者よりも脚気での死者が多い事態(28,000人以上)となるが、陸軍はその事実をひた隠しにし、陸軍軍医としての森の立場は揺るぎなかった・・・しかし死にさいしては・・・

〈読後感〉
明治という時代には、感染症等の病気の原因は分かっていなかったが、光学顕微鏡の出現によって、次第に明らかになっていく時代であり、更にpost顕微鏡に移行する時代でもあった。その時代の流れに乗り切れなかったら、落ちこぼれていく過酷な世界でもあり、現在のような激しい世界的な競争が、既にこの時代に始まっていたのがよく分かります。

陸軍軍医としては最高位の陸軍軍医総監(中将相当)まで登り詰めた森だが、北里の大鷲のような強靭さと、目標に対して一直線に翔けて行く意志に対し、森は常にコンプレックスを抱いていた。また森家の家長としての期待、組織人としてのしがらみに常に悩まされていたので、そのはけ口として文学の道へもひた走るが・・・
そういう事象が淡々と書かれているのですが、森林太郎(あるいは鷗外)の苦悩の掘り下げ方が今一つ心に響かないという感じです。
全体として面白く読み通せたのですが、読後感となると、いまひとつ物足りないという感じになったのは残念です。

故山崎正和氏の「鷗外 戦う家長」という優れた評論があります。そこでは明治という国家の期待を背負いながら、家というものを必死に守り抜こうとした一人の男の「闘い」と「孤独」を浮き彫りにしています。
「挫折しないことへの不安」に怯えながら、最後まで社会的役割を演じ続けた森が、死の床ですべての社会的肩書きを拒否し、「森林太郎」として死んでいく事実。そこから逆に遡って考えれば、もっと哀れな、悲劇的な人間として森を描けたのでは・・・読者の身勝手な思いですが・・・

2026年4月22日水曜日

街道を撮りにゆく 根津美術館(尾形光琳展)

光琳派・・・「燕子花図」と尾形光琳のフォロワーたち

根津美術館のエントランス






















毎年燕子花(カキツバタ)の咲く時期恒例の「根津美術館の尾形光琳展」に行ってきました。
以下、写真でご覧下さい。

今回は「琳派」ではなく「光琳派」という定義での「開館85周年記念特別展」です。

「琳派の系統」
俵屋宗達:生没年不詳
尾形光琳:1658年~1716年
酒井抱一:1761年~1829年
「琳派」は、上記の世代の異なる3人の画家が、直接の接点はないものの、いずれも先人に対する憧れによって画風が継承され、形づくられたと謂われています。

今回の企画は、特に尾形光琳の弟子や手ほどきを受けた人々にスポットを当てています。




大好きな尾形乾山の絵付け皿等が、かなり展示されていたのは嬉しい限りです。















2階へ上がる階段から見た一階フロアー
























展示会場は撮影禁止ですので、以下の資料でご覧下さい。画面をクリックしますと画像が大きくなります。







2026年3月27日金曜日

街道を撮りにゆく 身延山久遠寺

             歴史と桜の久遠寺


久遠寺の三門












  3月23日、久遠寺の桜が8分咲きとのことで、初めて行って来ました。翌朝のNHKのニュースでも取りあげられ、その後は寺院近くの駐車場は大渋滞とのことです。

久遠寺は、750年の歴史を持つ日蓮宗総本山でかなりの山奥ですが、門前は宿坊や土産物店等なかなかのにぎやかさです。

総門を潜ると、いきなり287段の階段があり、青息吐息で登りました。

















「履物の奉納品」
身延山久遠寺に巨大な下駄や草履が奉納されているのは、主に足腰の健康(健脚)への願いと、日蓮聖人が厳しい修行のために山中を歩き続けた足跡を称えるという意味があるそうです。

五重塔













建物を挟んで紅白2本のしだれ桜









樹齢400年のしだれ桜




























































2026年3月26日木曜日

街道を撮りにゆく 三毳山のカタクリ

          春  の  妖  精

三毳山には2つのカタクリの群生地があります。
佐野市の「万葉自然公園かたくりの里」と栃木市の県営都市公園「みかも山公園」です。
今回は2026年3月15日に両方を訪ねました。
この段階では開花情報では5分咲きとありましたが、現地に行って見るとほぼ満開に近い状態で、花の痛みもなく、綺麗な花に出会うことが出来ました。
〈撮影の案内〉
「万葉公園」の方は、マクロ、広角、望遠の何でも使えます。
「みかも山公園」の方は、花までの距離があるので望遠での撮影が中心になりますが、傾斜がある分、太陽や木漏れ日を入れたり、面白い写真になる可能性があります。
以下、写真でご覧下さい。













































アズマイチゲ




















2026年3月25日水曜日

読書 『危機の三十年:冷戦後秩序はなぜ崩壊したか』  細谷雄一

   ユートピア主義とリアリズムを繰り返す国際情勢


著者:細谷雄一
出版:新潮選書(2026年2月刊)

著者は、国際政治学の古典である、E.H.カーの『危機の二十年』(1939)を念頭において、過去30年の国際情勢を冷静に分析し、ソ連崩壊後の西側諸国の驕りと構造的欠陥を冷静に分析したなかなかの力作です。

過去2世紀の国際政治は、18世紀の啓蒙主義からフランス革命を経て国家間の軍事衝突。その後ウィーン体制を基礎とした平和。19世紀後半には欧州では、第一次世界大戦が勃発、大戦後はリベラルな国際主義の理念により国際連盟を設立。だが1930年代には世界はパワーポリティクスに支配され、第二次世界大戦へ突入。
大規模で悲惨な戦争を体験した人類が、その反省から戦争のない平和なユートピアを追求し、その後はその理想が踏みにじられて、今度は権力闘争を前提とするリアリズムが再興する循環が、一定の期間を隔てて繰り返されてきたことが理解できる。

現代に目をうつすと、東西冷戦が終結し、人々は戦争の時代が終わり、平和が永続するユートピアを夢みた。また民主主義が拡大して、自由貿易の思想がグローバリズムの潮流に乗って世界に広がっていくことを確信した。
欧州についていえば、中・東欧の人々はかつてナチス・ドイツに蹂躙され、大戦終了後はソ連の衛星国になることによって自らの国家主権が制限された。そのような呪縛から解放されて、今度こそは確かな安全保障を手に入れたいという原動力が、NATOへの加盟、つまりNATOの勢力拡大へと連なり、結果としてロシアのかつての勢力圏を脅かすことになる。
 
そのような西側世界の勝利主義は、ロシアの人々にとっては屈辱の歴史であった。
NATOの東欧への勢力拡大の流れに対して、ケナン、キッシンジャー、イギリスのマゾワーのように国際関係をリアリズムで捉えている人々からは警鐘が発せられていたが、あくまで少数派であった。
西側の大多数の人々は冷戦終結後の世界における民主主義の拡大と、グローバリズムの深化を自明のことと認識し、自らが理想とする国際秩序を創り出すことができるというユートピアニズムへと繋がっていく。
ロシアについて言えば、唯一ゴルバチョフだけが、西側の考え方に心理的な敵対心や、排外主義的な感情を持たなかった例外的な指導者であり、そのことが後に「裏切り者」と国内で繰り返し批判されることになる原因になった。
ロシアでは東欧諸国がNATOに組み入れられていくのを、敗北主義的な感情として受け取り、「憎悪と怨恨」の感情を鬱積させていった。そのような風潮から、ロシア国内で西側諸国との連携を模索する政治家の存在が失われていく。
アメリカおよび西側諸国とロシアの関係は、同じコインの表と裏の関係であった。
そして米ロ両者の関係に決定的に亀裂が生じるのは、1995年にプーチン大統領が登場してからである。

2003年の米英のイラク攻撃は、自らの意に沿わない政権を「レジーム・チェンジ(体制転換)」するアメリカの傲りが明確に浮かび上がっていた。国際法上の疑義が残る中で、従来とは違ったロシアへの事前調整を経ないアメリカの強引な対外行動が、更にプーチンの疑念や不満を鬱積させていった。一方アメリカも権威主義化していくプーチン体制に警戒感を強めるようになる。
2004年にバルト3国、ブルガリア、スロバキア、スロベニア、ルーマニア、の七か国がNATOに加盟する。更に旧ソ連邦の主要構成国のウクライナまでがオレンジ革命を経て、NATOへの加盟を目指すようになる。
これによって、アメリカの勢力圏が、自国の足元まで到達したとプーチンはとらえ、ロシアの国家安全保障上の危機と認識するようになり、逆に2014年ロシアのクリミア強制併合、ウクライナ東部への侵攻へと繋がっていく。
それに対して、欧米、特にオバマ政権はロシアに対して強硬姿勢をとることはなかった。というのも世界金融危機が始まった2008年以降欧米ともに国内経済の再建が最優先課題となり、対外軍事関与を縮小し、国防費を削減することが重要な政治課題となっていた。対中国やインド等の新興国との関係を強化することが自国の経済成長にとって重要な意味を持つようになっていた。
また、対ロ関係改善を求めるトランプが2017年大統領になり、NATOへの批判を強めたことにより、西側諸国の結束は弱まっていった。そのような融和的な態度が2022年のロシアによるウクライナへの本格的な軍事進攻へと繋がっていく。
ロシアのウクライナ侵攻によって、それまでロシアに対して宥和的な態度を取っていた欧州各国はロシアとの対決姿勢を強めるに至ったが、その後皮肉にも、アメリカが再び第2次トランプ政権に変わるや、それまでのアメリカ政府の立場とは対照的に、自国の利益を優先してロシアに対して宥和的な態度を取り始めた。そのことが、プーチン大統領の強硬な姿勢を後押しする結果になってしまった。
それまでのユートピアニズムの破綻が、世界をパワーポリティクスと大国主義が基調のリアリズムの時代へ大きく転換した。

最後に著者は言う。
「21世紀の現在に、むき出しのリアリズムによって『勢力圏』を確立し、近隣諸国を武力によって抑圧するロシアや中国、そしてトランプ政権のような19世紀的な帝国主義の論理を、21世紀を生きるわれわれは自明のものとして受け入れるべきではない。まだわれわれは、『危機の三十年』の後にくる時代を知らない。かつてカーが提唱したように、ユートピア主義とリアリズムを相互に補完的に融合させることで安定的な新秩序を得られるであろうか・・・『危機の二十年』というカーの古典から学べる教訓は、21世紀となった現在において、より一層大きくなっている」

2026年3月10日火曜日

三井記念美術館「在原業平と伊勢物語」

    「みやび」を体現する業平

在原業平生誕1200年の記念行事として、三井記念美術館で、「在原業平と伊勢物語」が開催されています。

美術館に入る前に地下鉄を降りて地上に出ると、日本橋の景色が一変しているのに驚きです。高層ビル群が立ち並び見違えるようです。恰も三菱地所の丸ノ内の高層ビル群に対して、三井不動産がコレドや三井タワーを中心とした高層ビル群を建てて、競い合っているような感じです。
江戸時代までは、扇、焼き物、合貝、屏風、掛け軸、色紙、能や能面、硯箱、皿、着物・・・等々「在原業平と伊勢物語」がジャンルを超えて、いろいろな物のモチーフとして用いられてきたのには驚きです。

美術館内は撮影禁止なので、内容は下記のカタログの写しでご覧下さい。










































在原業平について

(大岡誠氏や高樹のぶ子氏の本を中心に、備忘録として整理しました)

時代:平安時代初期~中期(西暦825880年)、同時代に空海、菅原道真などがいます。特に菅原道真は在原業平の役所での上司です。
紫式部の時代には「伊勢物語」は既に古典になっていました。

家柄:桓武天皇の末裔で、皇族だったのですが、父が願い出て兄と共に在原姓を賜って臣籍降下しています。

エピソード
漢文で書かれた正史「六国史」の中で、菅原道真は、在原業平について「ほぼ学才なし」と書いているそうです。この場合の学才とは漢学を差します。
菅原道真から見れば、誰でも「学才なし」かも知れませんが・・・

ただ、非常にのどかで、和歌が上手く、美男子で女性にもてたらしい。伊勢神宮の神の妻として仕える女性とか、幼少だった天皇の年上の奥方(高子)と同衾してしまい、それが藤原氏の怒りを買い、伊勢物語の「芥川」(※1)や「東下り」の物語が出来たという説があります
(※1「芥川」:主人公の男(在原業平?)が恋人を盗み出して逃げるものの、悲劇的な結末を迎える話)

また、高樹のぶ子氏によると、「在原業平は、プレイボーイの代名詞のように言われるが、『伊勢物語を読むと、彼は決して女を次々と射落とすハンター型ではなく、むしろ受け身で、巻き込まれ型の恋が多かったと述べています。
出世を望まないにしろ、何らかの形で自分を認めて欲しい。その思いが向かった先が歌でした。不遇をかこった業平には、思うに任せぬ事も多くあったわけですが、それがそのまま歌をつくる力になり、モチベーションにもなった。命のエネルギーを思い切り歌に注いだため、業平の歌は人々の心を打ち、その結果として、女性にモテた。そういう順番だったと思います」

不遇を囲った業平だが、晩年には、かつての恋人(高子皇太后)が主宰するサロンに呼ばれ、その縁で蔵人頭に登り、藤原氏ほどではないが、政治の中枢にはいたようである。