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2026年9月3日木曜日

読書メモ 「大論争この国の守り方」(番外編 石原vs三島)片山杜秀

      三島由紀夫は石原慎太郎にコンプレックス?


〈江藤淳と石原慎太郎〉の章で、途中で脱線して三島由紀夫と石原慎太郎についての記述があります。余りにも面白かったので、番外編として記述しました。

著者の見立ては三島は石原の「若さ」と「バイタリティ」、そしてそれを支える「肉体」にコンプレックスを抱いており、常に石原の後追いで対抗しようとしている。

きっかけは、「潮騒」と「太陽の季節」の文学作品。
三島の「潮騒」は、古代ギリシャの肉体美、神話性、純粋性を日本の海に移植しようとする試みで、健康な肉体の男子と文明に穢されていない純粋な少女との恋愛を描いた。
その翌年発表された石原の「太陽の季節」は不良少年たちが衝動のままに繰り返す乱痴気騒ぎ。
同じ海を舞台に、同じ裸を描いた作品でもずいぶん違います。この石原の描く直接性に対して三島は嫉妬を抱いたのではないかというのが著者の見立てです。
「太陽の季節」の発表の年から三島はボディビルを始めているのも面白い。

石原は三島の死後に書いた「三島由紀夫の日蝕」で三島の肉体改造への試みを、ある種の愛情と同情を持って書き留めています。
石原は言う、「私はいろいろ手掛けてきたスポーツに対して全てに一流とは言えないが、しかし見巧者であることは疑わない。その私から見ても氏(三島)の反射神経は絶望的だった」
三島もスポーツで懲りれば良かったのだが、映画出演や映画監督でも石原と張り合おうとする。石原は映画「太陽の季節」に自らも出演し、その後3本の映画で主演を務める。
三島は「空っ風野郎」で主演を演じるがスタッフ曰く「あれは大変。監督も三島さんも見ていて可哀そう。三島さんの演技の動きがチグハグでどうにもならないんです」
次に映画監督としても石原が先行し、三島が追いかける。

Wikipediaで調べてみると、戦時中は戦争への高揚に憧れた三島であったが、入隊時の身体検査でひっかった事に乗じて、それを忌避して徴兵から逃げている。自分のその身体の虚弱から来る気弱さや、行動から〈拒まれている〉という意識が三島にとって生涯コンプレックスとなったようだ。
元々身長が高くスポーツマンの石原に対して、三島は生まれながらの虚弱で貧相な肉体で、運動能力もかなり劣る。にも拘わらず、三島は石原に嫉妬を抱くと共に、戦後を生きていく上で、彼なりの直接性を求めたのではなかろうか?
滑稽ではあるが、三島には真剣な行為であったと著者はいう。

〈追記〉
この著書とは別の本ですが、1970年に三島由紀夫は自衛隊に乗り込んで割腹自殺をした件で、小林秀雄と江藤淳の対談の中でそれに触れる箇所があります。
江藤が「三島事件は三島さんに早い老年がきた。
老年といってあたらなければ一種の病気でしょう」と切り出したのに対し、小林秀雄が不快感をあらわにして反論する有名な論争が印象に残っています。
江藤「じゃあれはなんですか。老年といってあたらなければ一種の病気でしょう」
小林「あなた、病気というけどな、日本の歴史を病気というか」
江藤「日本の歴史を病気とは、もちろん言いませんけど、三島さんのあれは病気じゃないですか。病気じゃなくて、もっとほかに意味があるんですか」
小林「いやア、そんなこというけどな、それなら吉田松陰は病気か」
江藤「吉田松陰と三島由紀夫とは違うじゃありませんか」

戦前~戦後の批評家としての揺るぎない地位を確立した小林と、小林の後継者と見做されている江藤のこの論争はその迫力が伝わってくるようなスリリングなものでした。
更に三島事件については、事件の翌朝の毎日新聞の一面全体に渡って司馬遼太郎の三島批判の記事が掲載された記憶も鮮明に残っています。(この記事を書く事に対して司馬は嫌がったが、新聞社が無理に頼み込んだそうです)

〈最後に〉
今回片山杜秀の本をきっかけに、三島由紀夫が自衛隊に乗り込んで割腹自殺をした件について再び考えてみました。
当時大学生だった私の体験から、今回の片山杜秀の議論が単なる「三島由紀夫論」ではなく、1960年代後半から1970年初頭に至る日本の空気を、後からもう一度見直す作業になったと思います。
当時の感覚からすれば、三島事件はたしかに「異常な事件」でした。
安保反対運動、大学紛争、左翼と右翼、ベトナム戦争……政治が日常生活のすぐそばにあり、若者が政治的言葉を盛んに口にしていた。その中で、作家が自衛隊に乗り込み、割腹するという出来事は、あまりにも突出していた。
今回、片山杜秀の本を読んでから振り返ると、「突然、三島が狂気の行動に出た」という一枚の写真ではなく、
「三島という人間が、戦後の日本の中で、何を求めて少しずつ行動の側へ移っていったのか」という長い動画として見えてくる。ばらばらに見えていた三島の行動が、一つの方向性を持っていたことが見えてきます。さらに手元にある未読の「三島由紀夫・石原慎太郎全対話」を読めばもっと鮮明に見えて来る気がします。

知識人のこの事件に対するの評価にしても、以下の景色が見えてきます。
片山杜秀=「三島の身体と行動」という事からアプローチしているが、片山を他の人に置き換えると・・・
司馬遼太郎を置くと、「美を地上に降ろす」という問題が見える。
江藤淳を置けば「個人の精神と戦後」という問題になる。
小林秀雄を置けば「それを歴史としてどう受け止めるのか」という問題になる。
それぞれ違った角度から三島事件にアプローチし、違った評価をしていたのは、興味ある発見でした。

2026年8月29日土曜日

読書メモ 「大論争 この国の守り方」片山杜秀

   戦後日本の「戦争と平和・安全保障・アメリカ」ついての論争

             

著者:片山杜秀
出版:文春新書

日本の戦後を、「戦争と平和・安全保障・アメリカ」という切り口で、論敵であったり、明らかに対極的であったり、始めは近かったのにずれていったりする人達を対比させています。
著者の人物の対比の妙、そしてその洞察力には舌を巻きます。

南原繁と小泉信三
講和条約をめぐる南原の全面講和論と現実主義の小泉の多数講和論の考え方の相違。
現代から振り返れば、小泉の方が正しい判断だと思います。ただ全面講和の主流派の考え方は非武装中立論とセットになっていますが、南原は武装中立なのが異色で面白い。

山本七平と会田雄次
山本は一兵卒の目からみる日本の軍隊の非合理性を訴え、会田はイギリスのアーロン収容所での捕虜になった体験から。会田はアングロサクソンは捕虜に暴力を振るうような事はしないが、内側からでなければ見えない差別(有色人種を猿や犬と同じように人間と見なさない、また非欧米人は合理的な判断ができない等)の凄さを訴える。

福田恒存と清水幾太郎
講和条約問題や60年安保では非武装中立論のオピニオンリーダーであった清水が核武装論に転じる背景(現実のソ連の侵略政策や、60年安保で丸山真男は岸を退陣させたことで成功だとするのも清水からみれば裏切りであった)と、保守として一貫して揺るぎない福田が、それを一刀両断に切り捨てる凄さと清水への思いやり。

石原慎太郎と江藤淳
終戦時にともに12歳であった両者で、戦後の混乱期、そして高度成長期に青春期を過ごす。若くして頭角を現した二人の思想は共に保守だが、作家と批評家という違いだけでなく、性格も全く違う二人の共通項はアメリカからの自立。その背景を浮かび上がらせる。

※追記〈三島由紀夫vs石原慎太郎〉
この章で、脱線した話だが三島と石原の比較は一つの章ができるほど面白かった。
著者の見立ては三島は石原にコンプレックスを抱いており、常に石原の後追いで対抗しようとしている(スポーツ・映画出演・監督等々)。
これについての詳細は次回のブログで述べます。

大江健三郎と吉本隆明
共に左派だが心情左派の大江と極左の吉本の違いが際立つ。吉本の心情左派への批判の凄さも見ものです。
別の本ですが極左の吉本と保守の論客である江藤は、お互いにリスペクトし5回の対談を行っています。「吉本隆明 江藤淳 全対話」(中公文庫)もお薦めです。

2026年8月2日日曜日

映画 開戦前夜(石井裕也 監督・脚本・編集)

映画 「開戦前夜」 石井裕也 (監督・脚本・編集)
(原作:「昭和16年の夏の敗戦」著者:猪瀬直樹

















原作はかなり以前に読んだので、細かい内容は忘れましたが、それでもかなりの衝撃を受けた本でしたので、映画も初日に見てきました。
深刻なテーマを扱った映画で、2時間以上の上映時間ですが、緊張感あふれる内容で、最後まで一気に見せてくれます。
最後の空襲で焼け野原になった場面を見ながら、何でこんな負けるのが分かっている戦争に突入してしまったのかと、自然に涙が湧いてきました。
総力戦研究所が「日本必敗」という結論に到達しながら、その警告が国家を止める力を持たなかったことこそ、この映画が訴える最大の悲劇であり、同時に現代にも通じる重い教訓ではないでしょうか。

〈あらすじ〉・・・ネタバレ
1941(昭和16)年4月、真珠湾攻撃の8カ月前。官僚・軍・民間から選りすぐられた若きエリートたちが、内閣総理大臣の直轄機関「総力戦研究所」に招集された。彼らに与えられた任務は“模擬内閣”を結成して日米が開戦した場合の戦局をシミュレーションし、その結果を近衛内閣に報告すること。宇治田(池松 壮亮)を始めとするメンバーたちは、国家機密レベルのデータを駆使した激烈な議論の末、「日本必敗」という衝撃的な結論にたどり着く。しかも彼等は当時欧州を席捲していたドイツの敗北まで予想していた。
彼らの「敗北という見通しから戦争回避すべし」という報告に反して、既にアメリカからは日本への石油禁輸処置が打ち出され、時代の空気は彼らの意図とは反対の方向へ流れていく。そうした中で、近衛が内閣を投げ出し、東條英機に組閣の命が下る。

この場面は、以前読んだ「木戸幸一日記」に書いてあることが忠実に再現されている。天皇や木戸が東條に組閣を命じた意図は、陸軍を抑えるためであるが、東條もその意向に沿って動こうとする・・・そうした意図に反して、マスコミは戦争を煽るような形で世論を扇動し、陸軍もそのような動きと歩調を合わせ、東條でさえ身の危険を感じるほどになる。得体の知れない戦争への熱気が日本全体を覆い、時代は時間と共に戦争に向かっていく。
アメリカから石油の全面禁輸処置に続いて、11月にはハル・ノートを突きつきられ、東條も開戦へ舵を切るが、結果は「総力戦研究所」が机上で出した結果とほぼ同じになる・・・原爆の投下以外は・・・

〈余談〉
最近、高坂正堯の遺作となった「世界史の中から考える」を読んでいると、太平洋戦争に関して「真珠湾の攻撃」「ハル・ノート再考」という章があった。アメリカ側からの考察である。

そこでの高坂の見立ては、ドイツが快進撃を進め、フランスが降伏し、イギリスも追い込まれていた欧州の戦争に、ルーズベルトは参戦したかった。ただ、建前としては「アメリカが攻撃されない限り、戦争はしない」と語っていた。つまり当時のアメリカは孤立主義、すなわち旧世界(欧州)の権力政治にアメリカは関与しないという建国後まもなく作られた原則だった。
当初、ルーズベルトはまずドイツを挑発しようとした。イギリスに駆逐艦五十隻を与え、それを輸送する際、アメリカ海軍が護送した。ドイツが潜水艦か他の方法で、その艦隊を攻撃しても当然だった。第一次世界大戦ではアメリカは中立を続けたが、アメリカ客船をドイツの潜水艦が撃沈したため、アメリカが参戦した前例があった。
今回は、ドイツはその挑発に乗らなかった。
その結果、ルーズベルトは「戦争裏口説」と呼ばれる政策を考えるようになった。すなわち、日本を挑発し、それをきっかけに日本と同盟関係にあったドイツと戦うシナリオである。
そのもっとも顕著な例が有名な「ハル・ノート」である。ハル国防長官は当時行われていた日米交渉の最後になって、従来の交渉の一致点を全て無視して、始めには提示しなかったような最後通牒とも言える厳しい条件を突如だしてきた。
アメリカはその時点で、日本と戦う意志を固めていたのは事実のようであると、高坂は推測する。
さらに高坂は言う、以上の事から日本に責任がなかった事を意味するものでは全くないと。

2026年7月28日火曜日

講演メモ 「漱石の悲しみ」司馬遼太郎講演録より

          「菫ほど小さき人に生まれたし」

ここでは講演に対する感想というより、明治における日本語の言文一致運動の流れを中心に論旨を纏めています。
その日本語文章の完成者と言われている「漱石の悲しみは何だったろうか?」を考えていただけたらと思います。

 「漱石の悲しみ」の講演の論旨
明治時代は、全ての事象や概念(芸術や政治だけでなく色恋沙汰まで)を表現するための新しい日本語(言文一致体)を試行錯誤した混迷の時代でした。

今の我々からは想像しにくいのですが、当時の日本人は、すべて七五調か八六調の馬琴崩しの文章しか持っていませんでした。
そして坪内逍遥が「小説神髄」を書き、逍遥に勧められて二葉亭四迷が言文一致を目指して「浮雲」を書きます。日本語が、文章として口語になった革命的なものでした。ただこの「浮雲」も三馬を横に置いて書いたらしい。近代小説の夜明けにしては寂しい話です。

一方正岡子規は、「漢文にしても江戸時代の文章にしても、言わんと欲する事があって書いているのではなく、文章という美学的作業をやっている。ただ名文を連ねているだけだ」と主張し、「文章というものは、言わんとするためにあるのだ」と考え、「山会」という勉強会を始めます。正岡子規、高浜虚子、伊藤左千夫など、そこへ漱石も顔を出していた。鷗外も来たことがあるそうです。子規の考え方、つまり「写生」という方法が、漱石に事物や人間を観察して描く姿勢を与えたと言えます。

その「山会」で高浜虚子がたまたま漱石に「ホトトギス」に小説を書いてみませんかと勧め、「吾輩は猫である」の誕生に繫がります。
その後、漱石は書く毎に文体やテーマを変えて行きます。
「三四郎」になると明晰な文体で書かれ、今読んでも非常に面白い。司馬は「三四郎」によって、日本語の近代の散文は一つの完成を見たと評価しています。

この講演で、漱石の文体は三つの流れが重なってできたものだというのが見えてきます。
江戸文学・日本古典・・・「吾輩は猫である」「坊ちゃん」:江戸の滑稽本や落語
漢文・漢詩・・・・・・・「草枕」:美文調の文体
英文学・・・・・英文学から学んだのは「文体そのもの」より、「小説とは何か」という考え方。特に、イギリスの小説では、①人物の心理を描く ②会話によって性格を表す ③日常生活を細かく観察する・・・という近代小説の伝統がすでにありました。
漱石はこれを見て、「日本語でもこういう小説を書かなければならない」と考えたのだと思います。しかし、日本語でどう実現するかは、漱石自身が試行錯誤して作り上げました。
さらに漱石は、「それから」「門」「こころ」「明暗」へ進むにつれて「近代人の孤独」「個人のエゴイズム」という人間の普遍的な、重要な問題に踏み込んでいきます。

その日本語の散文の完成者である漱石も、当初は行きたくもないロンドンに行き、異文化というよりも当時の世界の覇権国家との出会いによって衝撃を受け、打ちひしがれて帰ってくるわけです。だから漱石はその後、英文学については失望や挫折というより縁切りをしています。漱石という人は明治時代に立身出世のカードを全部持っていた人で、それを全部捨てた人です。
その漱石に・・・「菫ほど小さき人に生まれたし」・・・という俳句があります。
すみれは日本の「古今集」にもあまり出てこない、目立たない花です。漱石はその花を見て、来世にもう一度生まれ変われるならと・・・この俳句を作ったのでしょう。
司馬は、この「菫ほど小さき人に生まれたし」という一句に、近代という巨大な文明を知ってしまった漱石の、静かな孤独と悲しみを見たと思います。

〈余談〉
前回のブログで取り上げた水島美苗の「日本語で書くということ」でも書きましたので、繰り返しになりますが、再度掲載します。
漱石は晩年「明暗」を書いている時は、午前中に執筆し、午後は漢詩を読んで気分転換を図っていたそうです。
漢文に親しんで育った漱石が英文学と出会い、その衝撃を受け、困惑し、最後には反発していった気持ちが少しだけ分かったような気持ちになりました。

以上、講演の内容をダイジェストしただけですが、この講演は2時間半にもおよぶ長時間の講演で、聴衆を飽きさせないために他にも色んな事を言っています。面白い講演なので、興味のある人は是非原文を読んでいただきたいと思います。

2026年7月19日日曜日

読書メモ 「日本語で書くということ」 水村美苗

    漢詩に親しんだ漱石に近代小説が与えた衝撃


著者:水村美苗
出版:ちくま文庫

寡作の作家なので、知らない人も多いと思いますので、著者の紹介から始めます。
1951年生まれ。父親の仕事の関係で12歳で渡米、米国滞在が長くイェール大学博士課程卒。プリンストン大学・ミシガン大学・ミシガン大学等で日本文学を教える。
夏目漱石の「明暗」の続編として書いた「續明暗」は高く評価され芸術選奨新人賞を受賞し、「日本語が亡びるとき」で小林秀雄賞等、殆どの著書で何らかの賞を受賞しています。



「日本語が亡びるとき」で、著者を知り今回の「日本語で書くということ」を読んだ次第です。
本書は「日本語で書くことへの希望」や「日本近代文学について」等の評論が納められており、中でも以下に取りあげる「文学の歴史性を読む」は、非常に面白い評論でした。
〈一部抜粋〉
「現代の小説は、英語の小説がそのまま日本語になったようで、世界の小説との繋がりが感じられない。漱石の作品にそれが感じられるのは、海を渡ってやってきた文学との出会いの衝撃が、まざまざと痕を残しているからにほかならない。その痕こそ文学の歴史性である。その根底にあるものは、西洋の『近代小説』の前提をなす『恋愛至上主義』に対する漱石の困惑である。漱石がそれまで親しんできた漢籍の中では罪悪ですらある行為に最高の価値を与えるものなのである」

つまり漢籍や儒教文化圏において、恋愛が最高の価値どころか、礼や義を乱す危険な私情として厳しく抑制されてきたという過去の文化というか精神を背負っていた漱石。
現代では実感しにくいのですが、漱石が西洋文学に出会ったことにより受けた衝撃の強さ。そして戸惑いや困惑が生じた事は、明治という時代を考えれば、それなりに察しられるというより、むしろ我々の想像以上の事ではないかと思われます。
確かに、『それから』『門』『こころ』などでは、恋愛と道義・社会との葛藤を何度も描いています。そこには西洋文学をそのまま受け入れられない戸惑いが色濃く表れているのかも知れません。
漱石が「明暗」を執筆中は、午前中に原稿を書き、午後からは漢詩を愉しむ事で、精神のバランスを保っていたという話も納得がゆきます。

また、違う視点ですが、漱石が近松門左衛門の「心中もの」をどう見ていたのか?
「源氏物語」から「近松」まで続く日本の恋愛史の観点から見れば、漱石はどう位置付けられるのか? 
それが分かるような本があれば、読んで見たいと思います。

2026年6月18日木曜日

街道を撮りにゆく 湯島台~駿河台

                       神田明神・湯島聖堂・聖橋・ニコライ堂

家康が江戸に入府した頃は、現在の神田川の上流(平川)は、日比谷入江(現在の皇居前広場や日比谷公園付近)へと流れ込んでいました。
そのため大雨のたびに江戸城周辺が水害にあうため、流路を東へ変えて隅田川へ放流するという壮大な計画が立てられ、
この中でも最も困難を極めたのが、現在の御茶ノ水駅周辺にあった「神田山」の掘削です。
この神田山を切り通したことにより、この付近は湯島台と駿河台とに分かれ、現在の御茶ノ水に人工の谷(茗渓)が出来上がりました。

今回は、神田明神、湯島聖堂、ニコライ堂、そしてこの二つの聖堂を繋ぐことから名づけられた聖橋を回りました。




〈神田明神〉

正式名称は神田神社(かんだじんじゃ)
神田祭でよく知られていますが、神田、日本橋、秋葉原、大手町、丸の内、築地など108の広大な町の総氏神さまです。

〈神田明神・男坂〉
2013~2014年にTV放映された国民的大人気アニメ『ラブライブ!』でμ's(ミューズ)のメンバーたちが走り込みのトレーニングを行ったことで、アニメの聖地になったそうです。
当時は、男坂で階段ダッシュを行うファンも多く見られたそうです。










〈銭形平次の墓〉
野村胡堂の小説の主人公で、度々映画化やTV放映されてきた「銭形平次」の墓が神田明神内にあります。
小説では
銭形平次の住まいは神田明神下となっています。
この碑の周りを囲っているのは。銭形平次が使う「投げ銭」こと「寛永通宝」を表面にあしらった石柱でした。
また、右横に小さくある碑は手下の「ガラッ八の八五郎」の碑です。








発起人をみますと、銭形平次のご利益にあやかった出版社、映画会社、テレビ会社の建立当時の社長名および主演を演じた長谷川一夫(映画)と大川橋蔵(テレビ)、さらに下の段まで見ますと「銀座・銭形」というレストランや「神田のれん会」という名前がありました。












〈湯島聖堂〉「昌平坂学問所」

5代将軍・徳川綱吉によって創建された孔子廟(儒教の祖・孔子を祀る廟)で、後に幕府直轄の学問所「昌平坂学問所」となりました。日本の近代教育発祥の地としても知られています。
大正11年(1922)湯島聖堂は国の史跡に指定されましたが、翌12年(1923)関東大震災が起こり、わずかに入徳門と水屋を残し、すべてを焼失しました。

東京帝国大学伊東忠太教授の設計により、寛政時代の旧制を模し、鉄筋コンクリート造りで
1935年昭和10年再建を果たしました。

伊東忠太といえば妖怪趣味で知られる設計家で、湯島聖堂再建の際に、屋根や細部に配置した空想上の霊獣(妖怪)の彫刻は、オリジナルよりもデフォルメが強く、少し不気味でユニークな造形(妖怪的テイスト)と言われています。
代表的なものとして、大成殿の屋根に「鬼犾頭(きぎんとう)」と「鬼龍子(きりゅうし)」が設置されています。

関東大震災の火災・東京空襲にも焼け残った入徳門

焼け残った水屋の一部









鬼犾頭(きぎんとう)(左写真の上)
大成殿の屋根の左右に配置された、頭が竜で胴体が魚(龍頭魚尾)の霊獣です。頭から潮(水)を吹き上げて建物を火災から守る役割を持っています。

鬼龍子(きりゅうし)(左写真の下)
大成殿の屋根の四隅などに配置された、猫のような姿(猫形蛇腹)をした牙を持つ霊獣です。孔子のような聖人の徳に感じて現れるとされています。 





〈聖橋〉



聖橋からの眺め 地下鉄丸ノ内線・JR(総武線・中央線)が交差

神田川に放物線
を描くアーチ橋で、関東大震災(1923年)後の震災復興橋梁の一つで、1927年(昭和2年)に完成。
橋の北側の湯島聖堂と南側のニコライ堂の2つの聖堂を結ぶことから名ずけられた。(名前は公募による)

〈ニコライ堂〉
「ニコライ堂」は通称であり、日本に正教会の教えをもたらしたロシア人修道司祭聖ニコライに由来する。 正式名称は「東京復活大聖堂」
現在の姿は関東大震災で被災した後、
一部構成の変更と修復(1929年)を経て現在に至る。



2026年6月13日土曜日

街道を撮りにゆく 秋葉原界隈

          サブカルチャーと歴史の街


〈サブカルチャーの街〉
JR秋葉原駅の改札を出ると、目に飛び込んできたのが、掲載した2枚の写真に見られるような光景・・・秋葉原は、アニメ、マンガ、フィギュア、メイドカフェ等日本のサブカルチャーの文化が集結する世界的な聖地ということが実感できます。外国人も多くいます。
昔の電気街というイメージからは、かけ離れてコアなファンや観光客が交流する一大拠点として機能しているようです。







従来の非常階段
〈ペンシルビルと非常階段の深化〉
秋葉原の駅前も他よりは遅れたが、再開発されてきました。ただその一画から一歩外に出ると、ペンシルビルが立ち並んでいます。
再開発をするデベロッパーからは、開発秩序を乱すと批判されてきましたが、そっと慎まし気に立つ姿は、微笑ましくもあり、たくましい生命力に満ちている感じもします。

そのペンシルビルの非常階段を見ますと、面白い進化というか深化というべき発展をしているのに気づきます。





オモテに露出した非常階段
非常階段は、これまで建物の裏または他からは見えない側面にひっそりと設置されるのが一般的でした。
ビルの裏とか側面に設置するというのは、そこへの通路も必要になります。
東京のように高密度・高集積化された街ではそのような場所さえ奪われ、オモテの世界へ引きずりだされてしまったようです。
オモテに引きずり出された非常階段は、デザインがより派手になり、ビルの一部に組み込まれているように見えます。





旧万世橋駅
かつて、中央線の神田~御茶ノ水間に、明治45(1912)年に開業した「万世橋駅」がありました。(昭和18年に休止)
赤レンガのホームや階段など、駅の施設が一部残っています。
現在は、これら駅の遺構は見学でき、なおかつ新しい商業施設として再開発されています。

〈昌平橋〉
万世橋から神田川沿いに御茶ノ水方面に向かうと昌平橋があります。
この橋は神田川の架橋の中で古くから存在する橋です。
この川の上流方向(御茶ノ水方向)を見ると、昔(江戸時代)は、坂の上に昌平坂学問所(湯島聖堂)が見えたことから名づけられたそうです。
歌川広重の名所江戸百景に「昌平橋聖堂神田川」として描かれています。
現在では、昌平坂も湯島聖堂も建物の陰になって見ることは出来ません。

歌川広重の名所江戸百景
左は、歌川広重の「名所江戸百景・昌平橋聖堂神田川」の浮世絵です。
中央上の神田川の崖の上に昌平坂学問所の建物が並んでいるのが見えます。












現在の昌平橋・JR総武線の高架橋が架かっています。