ここでは講演に対する感想というより、明治における日本語の言文一致運動の流れを中心に論旨を纏めています。
その日本語文章の完成者と言われている「漱石の悲しみは何だったろうか?」を考えていただけたらと思います。
「漱石の悲しみ」の講演の論旨
明治時代は、全ての事象や概念(芸術や政治だけでなく色恋沙汰まで)を表現するための新しい日本語(言文一致体)を試行錯誤した混迷の時代でした。
今の我々からは想像しにくいのですが、当時の日本人は、すべて七五調か八六調の馬琴崩しの文章しか持っていませんでした。
そして坪内逍遥が「小説神髄」を書き、逍遥に勧められて二葉亭四迷が言文一致を目指して「浮雲」を書きます。日本語が、文章として口語になった革命的なものでした。ただこの「浮雲」も三馬を横に置いて書いたらしい。近代小説の夜明けにしては寂しい話です。
一方正岡子規は、「漢文にしても江戸時代の文章にしても、言わんと欲する事があって書いているのではなく、文章という美学的作業をやっている。ただ名文を連ねているだけだ」と主張し、「文章というものは、言わんとするためにあるのだ」と考え、「山会」という勉強会を始めます。正岡子規、高浜虚子、伊藤左千夫など、そこへ漱石も顔を出していた。鷗外も来たことがあるそうです。子規の考え方、つまり「写生」という方法が、漱石に事物や人間を観察して描く姿勢を与えたと言えます。
その「山会」で高浜虚子がたまたま漱石に「ホトトギス」に小説を書いてみませんかと勧め、「吾輩は猫である」の誕生に繫がります。
その後、漱石は書く毎に文体やテーマを変えて行きます。
「三四郎」になると明晰な文体で書かれ、今読んでも非常に面白い。司馬は「三四郎」によって、日本語の近代の散文は一つの完成を見たと評価しています。
この講演で、漱石の文体は三つの流れが重なってできたものだというのが見えてきます。
江戸文学・日本古典・・・「吾輩は猫である」「坊ちゃん」:江戸の滑稽本や落語
漢文・漢詩・・・・・・・「草枕」:美文調の文体
英文学・・・・・英文学から学んだのは「文体そのもの」より、「小説とは何か」という考え方。特に、イギリスの小説では、①人物の心理を描く ②会話によって性格を表す ③日常生活を細かく観察する・・・という近代小説の伝統がすでにありました。
漱石はこれを見て、「日本語でもこういう小説を書かなければならない」と考えたのだと思います。しかし、日本語でどう実現するかは、漱石自身が試行錯誤して作り上げました。
さらに漱石は、「それから」「門」「こころ」「明暗」へ進むにつれて、「人間は結局、他者とは完全には分かり合えない」という人間の普遍的な、重要な問題に踏み込んでいきます。
その日本語の散文の完成者である漱石も、当初は行きたくもないロンドンに行き、異文化というよりも当時の世界の覇権国家との出会いによって衝撃を受け、打ちひしがれて帰ってくるわけです。だから漱石はその後、英文学については失望や挫折というより縁切りをしています。漱石という人は明治時代に立身出世のカードを全部持っていた人で、それを全部捨てた人です。
その漱石に・・・「菫ほど小さき人に生まれたし」・・・という俳句があります。
すみれは日本の「古今集」にもあまり出てこない、目立たない花です。漱石はその花を見て、来世にもう一度生まれ変われるならと・・・この俳句を作ったのでしょう。
司馬は、この「菫ほど小さき人に生まれたし」という一句に、近代という巨大な文明を知ってしまった漱石の、静かな孤独と悲しみを見たと思います。
〈余談〉
前回のブログで取り上げた水島美苗の「日本語で書くということ」でも書きましたので、繰り返しになりますが、再度掲載します。
漱石は晩年「明暗」を書いている時は、午前中に執筆し、午後は漢詩を読んで気分転換を図っていたそうです。
漢文に親しんで育った漱石が英文学と出会い、その衝撃を受け、困惑し、最後には反発していった気持ちが少しだけ分かったような気持ちになりました。
以上、講演の内容をダイジェストしただけですが、この講演は2時間半にもおよぶ長時間の講演で、聴衆を飽きさせないために他にも色んな事を言っています。面白い講演なので、興味のある人は是非原文を読んでいただきたいと思います。
