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2026年11月3日火曜日

読書メモ「昭和16年夏の敗戦」 猪木直樹

         日本最大の悲劇の原因は?


著書名:昭和16年夏の敗戦
著 者:猪木直樹
出 版:中公文庫

1940年(昭和15年)10月に総理大臣直轄の組織として「総力戦研究所」が発足した。当時イギリスにあった帝国防衛大学(Imperial Defence College、IDC)を模して創られた。「陸軍大学校」のような軍人だけの学校とは全く異なり、陸・海軍の優秀な将校だけでなく、官僚さらには民間企業など、国家のあらゆる分野から将来を嘱望される30代の中堅エリートが集められた。
これは、第一次世界大戦を経て、「これからの戦争は軍隊同士の武力戦だけでなく、経済、外交、産業、情報、国民思想のすべてを動員する『総力戦』になる」という教訓から設立された。そのため、純粋な軍事戦術ではなく、「国家の総力をどのようにコントロールし、世界戦略を組み立てるか」を1年間の合宿形式で徹底的に研究・議論したそうです。

その「総力戦研究所」の一期生の平均33歳の若きメンバー達が、「模擬内閣」を作り、1941年7月から8月にかけて行われたアメリカと戦った場合の机上演習を行った。その結果は、「緒戦は勝つが、長期戦になって物量・工業力の差で3〜4年後に敗北する」「最終的にはソ連が参戦する」という予測が導き出された。
オランダ領東インド(インドネシア)の油田を確保したとしても、アメリカの潜水艦にタンカーが沈められて、石油などの資源が枯渇することなどもリアルに想定されていた。つまり原子爆弾の投下以外の戦争の大局的な帰結については、驚くほど正確な予測だった。

この極めて精緻なシミュレーション結果は、1941年8月27・28日に首相官邸で開催された研究会で、当時の近衛文麿首相や東條英機陸軍大臣をはじめとする政府・軍部の首脳陣に直接報告された。
報告を熱心に聞いた東條陸相は、若手たちの労をねぎらいつつも、以下のように発言「諸君の研究の労を多とするが、これはあくまでも机上の演習でありまして、実際の戦争というものは、君たちの考えているようなものではないのであります。(中略:日露戦争の例を持ち出して)戦というものは、計画通りにいかない。意外裡の要素というものを考慮したものではない。なお、この机上演習の経緯を、諸君は軽はずみに口外してはならぬ」と。

その報告会の帰り道で、研究生の一人は「東條さんの考えている戦況は、われわれの演習と相当近いものだったんじゃないか。でなければ『口外するな』なんて言わないよ」と言ったという。研究生たちには思い当たる事があった。東條は度々研究所を訪れ傍聴していたという。総力戦研究所が担うべき役割について深い関心を寄せていた数少ない首脳の一人だった。恐らく東條自身、日米の物量差は理解しつつも、「何もしなければジリ貧(石油禁輸による自滅)になる、戦うしか道はない」という強迫観念に囚われていたのかも知れない。
当時の日本政府や軍部は、すでに結ばれていた日独伊三国同盟や、それまでに積み上げてきた国策の「既成事実」、そして「今さら引けない」という組織内の空気や忖度に支配されていました。論理的なデータがあったにもかかわらず、「決定的な決断を下す責任者」が不在のまま、国全体が引き返せない破滅への道へとズルズルと突き進んでしまう。またマスコミも国民も戦争の雰囲気を煽っていった。

高坂正堯の本を読むと、戦争目的も不明瞭で、いつ終わるか分からない泥沼化していた「支那事変」に割り切れなかった国全体の雰囲気が、真珠湾の攻撃に成功した時、それまでの鬱屈した心情が一気にスッキリし、大方の日本人は興奮したという。文化人と言われる斎藤茂吉、高村光太郎、三好達治といった、当時のそうそうたるメンバーが賛辞の詩や歌を発表している。
これは裏を返せば、戦争の目的や最終的な着地点を冷静に考えるよりも、目の前の勝利に国民が熱狂してしまったということでもある。
また司馬遼太郎がいうように、日本は日露戦争が終わった時点で坂の上に立ったが、その勝利は日本の国力の限界を超えたところで得られた勝利であった。政府はそのことを国民に情報開示しなかったため、その後のポーツマス講和条約の内容に不満を持った民衆が暴動を起こした段階から、坂道を転げ落ち始めたのかも知れない。

私などが若い頃手にした歴史の教科書を含めて、あの戦争は「軍部の独走」として、国民は全て被害者であった。悪いのは一握りの軍国主義者という図式が出来上がっていた。軍国主義が一転して民主主義に衣替えしたとき、その転換の生贄が必要であった。その象徴に東條があてがわれた。
確かに東條は首相としての重大な政治責任から逃れられないものの、開戦に至る過程には、陸海軍、政府、官僚、政党、財界など、多くの組織と人間が関与していた。さらに、戦争を支持し、熱狂した国民や、それを煽ったマスコミ、文化人の問題もある。

これは、ムードや雰囲気に惑わされることなく、何が真実かを見極めることの大切さを教えてくれる。しかし、それ以上に考えさせられるのは、真実を知ることと、その真実に基づいて行動することは別だということである。総力戦研究所の若者たちは、日本の敗北を予測していた。しかし、その合理的な分析は国家の意思決定を変える力にはならなかった。真実を認識する能力だけでなく、それを政策に反映させ、必要な決断を下す政治の責任とは何なのか。この本は、その重い問いを私たちに突きつけている。

2026年11月2日月曜日

読書メモ 「三島由紀夫・石原慎太郎全対話」

                 興 味 津 々 の 二 人 の 対談

片山杜秀氏の「大論争 この国の守り方」で、石原慎太郎vs三島由紀夫の事に触れており・・・片山氏の見立ては、三島は石原の「若さ」と「バイタリティ」、そしてそれを支える「肉体」にコンプレックスを抱いており、常に石原の後追いで対抗しようとしている(ボディビル・映画出演や監督等々)・・・という内容が面白かったので、二人に興味が湧き、この本を読んだ次第です。

私は、三島については「潮騒」「金閣寺」「春の雪(豊饒の海)」、石原については「太陽の季節」程度しか読んでいなくて、二人についてはマスコミ報道から受けるイメージが中心であまり良い読者ではありません。

全部で9回の対談を行っており、その後三島が自決する5ケ月前には、三島が毎日新聞で公開批判しており、それに石原が返答する形で終わっている。

対談は、最初は三島が、欧米文学や日本の古典の知識を披露して、先輩格である態度で接しているが、時間の経過と共に、対等な関係になっていくのがよく分かり、最後の対談では三島が日本の歴史・天皇・神話に関する解釈の違いで、相当に苛ついて怒る場面もあります。
これは、単なる意見の相違ではなく、三島が命を懸けようとしていた聖域(天皇制)を、石原がどこまでも近代的・自己肯定的な視点でしか捉えなかったことへの、三島の絶望と焦燥が浮き彫りになった結果かも知れません。
中でも面白かったのは、演劇の脚本を書くことについての対談。脚本家と演出家・役者間の理解や力関係において、それぞれの違いについて興味が湧きました。特に歌舞伎については脚本家より役者の力が大きく作用し、脚本家の思いが通じないと言う。三島も石原も劇場という空間に深く関わったからこそ、「言葉(脚本)」が「肉体(役者)」に裏切られたり、あるいは凌駕されたりする現場のダイナミズムを、実感を伴って語り合えたのだと思います。
意外だったのは石原については、晩年のイメージで政治家という印象でしたが、インテリジェンスのある文士であることを痛切に感じました。

最後は喧嘩別れのような形になっていますが、三島も石原もお互いに文学だけでは物足りず、いろんな形で自己表現をしたいという共通点もあり、お互いに刺激し、思った事を言い合える仲だったと思います。
三島の自決という結末を知っている私たちは、どうしてもそこから逆算して三島の言動を解釈しがちです。しかし、この対談集では、まだ生きて活動している三島と石原が、互いに刺激を受け、議論し、時には笑い、時には激しく反発する姿を見ることができた面白い対談集でした。

2026年10月6日火曜日

読書メモ 「世界史の中から考える」高坂正堯

     高坂史観に学ぶ、珠玉のコラム

著者:高坂正堯
出版:新潮選

著者の柔軟な思考方法に魅せられ、書かれた本は割合読んできたつもりだったが、本書と似たような名の「世界地図の中で考える」があり、それと勘違いしていました。
そのような事情で、最近になって本書を読み始めた次第です。本書は高坂の遺稿でもあります。

〈著者の概略〉
1960年~70年にかけて論壇やマスコミでは日本の防衛について「非武装中立論」が主流であった。そのような風潮の中で高坂は、1963年(昭和38)に、若干29才であったが、中央公論にて「現実主義者の平和論」で颯爽たるデビューを果たした。高坂は同論文において、当時日本外交の進むべき道として、主流であった「非武装中立論」の道義的な価値を認めながらも、実現可能性の難しさを指摘し、日米安保を含めた軍事力の裏付けのある外交政策の必要性を主張した。以降「現実主義派」の論客として名を馳せた。62才で亡くなったのが惜しまれます。

〈本書の概要〉
雑誌に掲載していた大体5ページ程度の比較的短い評論をまとめたものだが、後半はシリーズで纏まった評論が続く。

「バブルで亡んだ国はない」・・・5編
オランダのチューリップバブル、英国の南海会社バブル等の例を引き、成長期の国がバブルを起こす。貯蓄が厚いからバブルが起きる。だからバブルがその国の命取りになることはないと。この評論を書いた時期は、日本のバブルが崩壊した直後であり、高坂なりの当時元気を無くした日本人への応援歌だと思います。

「政治の良し悪し・近代初期イギリスの政治から」・・・8編
イギリスの18世紀を検証しつつ、よい政治についての考察が語られる。いわく、偉大な政治家や良い政治なしで済むことの方が幸せではないか。ネルーやチトーが偉大であったとして、彼らの国は長く苦しんでいるではないか。
戦後の日本の政治が善いとは言われたことはまずなかった。本当にそうだろうか。政治が本当に悪かったなら社会は乱れ、経済の発展もなかった。 逆に大きく発展した国は、余り大政治家を生み出していない。ここに政治の不思議さがある。

「日本政治史から考える」・・・11編
昭和初期から開戦に至るまでの日本の政治に関しての評論。
多岐に渡るので、ここでは省略します。

他に、太平洋戦争に関して2編あり、アメリカ側から考察したものと、日本側から考察したものである。面白かったので以下に概略を記す。
〈アメリカ側からの考察〉
アメリカは実行不可能なタテマエの国である。アメリカ独立時からの伝統的な孤立主義の影響で、ルーズベルトはアメリカが攻撃されない限り戦争しないと宣言する。一方ヒトラーにヨーロッパを支配させるわけにもいかない。アメリカは武器貸与法でイギリスを援助し、ドイツを挑発したが乗ってこない。そこで、ルーズベルトは日本を挑発し、それをきっかけに日本と三国同盟を結んでいるドイツと戦うというシナリオになった。所謂世に言われている「戦争裏口説」である。随分曲がりくねったシナリオだが、孤立主義を原則とするアメリカにはそれが必要であった。しかし以上の事は日本に責任がなかったことを意味するものではない。なぜそうなったかについて我々は論じなければならない。それが我々にとって真珠湾の最大の教訓なのだから。

〈日本側からの考察〉
日本の政策が十分な計算と決意の下にとられたとは考えられない。一つには欧州でのドイツの力への過大評価があり、それに便乗しようとする雰囲気があった。ムードに弱く、流され、そのため情勢判断を誤ることが日本人の弱点であることは間違いないという。その中でアメリカを過少評価した上で、対米戦争も辞さないとするコンセンサスが一旦できると、それを変更することは難しくなった。
冷静に考えるなら、中国を侵略し、次第に深みにはまってどうしようもなくなって困っているのに、その上アメリカと戦おうというのだから、これほど合理性のない行動はない。
事実仏印インドシナに進駐し、対米戦争の準備も進めていた。こうした日本の行為が、アメリカの指導部に、日本を力で抑える以外に方法はないと判断させたのも事実である。

〈私見ですが・・・〉
この本の「日本政治史から考える」で、昭和初期から開戦に至るまでの日本の政治に関しての評論を読んでいて、ふと考えた事です。陸軍と海軍を比較した場合、太平洋戦争へ突入した問題では、常に陸軍が悪者にされている。しかし対米戦争においては主として戦うのは海軍であり、事実海軍はアメリカを仮想敵として準備していた。

一方陸軍は大陸での戦争が主であり、対米戦争については、自分たちが直接戦う相手ではないという意識があったのではないだろうか?
だから対米戦争では海軍の尻を叩くような感じで、無責任な強硬な意見を吐くことが出来た・・・のではないかと最近思い始めています。(あくまで主観です)

海軍が対米戦争で勝てないと思っていたなら、海軍が戦争を止めさせるべきだと思う。ただ海軍は、対米戦争に勝てないと言えば、メンツが潰れ、予算も削減される、しかも当時の政治的影響力は、陸軍に比して小さく、そう主張しても戦争回避は出来なかったかもしれない。ただ海軍が積極的に戦争回避の役割りを担わなかった罪も相当重いと言わざるを得ないような気がします。

2026年9月3日木曜日

読書メモ 「大論争この国の守り方」(番外編 石原vs三島)片山杜秀

      三島由紀夫は石原慎太郎にコンプレックス?


〈江藤淳と石原慎太郎〉の章で、途中で脱線して三島由紀夫と石原慎太郎についての記述があります。余りにも面白かったので、番外編として記述しました。

著者の見立ては三島は石原の「若さ」と「バイタリティ」、そしてそれを支える「肉体」にコンプレックスを抱いており、常に石原の後追いで対抗しようとしている。

きっかけは、「潮騒」と「太陽の季節」の文学作品。
三島の「潮騒」は、古代ギリシャの肉体美、神話性、純粋性を日本の海に移植しようとする試みで、健康な肉体の男子と文明に穢されていない純粋な少女との恋愛を描いた。
その翌年発表された石原の「太陽の季節」は不良少年たちが衝動のままに繰り返す乱痴気騒ぎ。
同じ海を舞台に、同じ裸を描いた作品でもずいぶん違います。この石原の描く直接性に対して三島は嫉妬を抱いたのではないかというのが著者の見立てです。
「太陽の季節」の発表の年から三島はボディビルを始めているのも面白い。

石原は三島の死後に書いた「三島由紀夫の日蝕」で三島の肉体改造への試みを、ある種の愛情と同情を持って書き留めています。
石原は言う、「私はいろいろ手掛けてきたスポーツに対して全てに一流とは言えないが、しかし見巧者であることは疑わない。その私から見ても氏(三島)の反射神経は絶望的だった」
三島もスポーツで懲りれば良かったのだが、映画出演や映画監督でも石原と張り合おうとする。石原は映画「太陽の季節」に自らも出演し、その後3本の映画で主演を務める。
三島は「空っ風野郎」で主演を演じるがスタッフ曰く「あれは大変。監督も三島さんも見ていて可哀そう。三島さんの演技の動きがチグハグでどうにもならないんです」
次に映画監督としても石原が先行し、三島が追いかける。

Wikipediaで調べてみると、戦時中は戦争への高揚に憧れた三島であったが、入隊時の身体検査でひっかった事に乗じて、それを忌避して徴兵から逃げている。自分のその身体の虚弱から来る気弱さや、行動から〈拒まれている〉という意識が三島にとって生涯コンプレックスとなったようだ。
元々身長が高くスポーツマンの石原に対して、三島は生まれながらの虚弱で貧相な肉体で、運動能力もかなり劣る。にも拘わらず、三島は石原に嫉妬を抱くと共に、戦後を生きていく上で、彼なりの直接性を求めたのではなかろうか?
滑稽ではあるが、三島には真剣な行為であったと著者はいう。

〈追記〉
この著書とは別の本ですが、1970年に三島由紀夫は自衛隊に乗り込んで割腹自殺をした件で、小林秀雄と江藤淳の対談の中でそれに触れる箇所があります。
江藤が「三島事件は三島さんに早い老年がきた。
老年といってあたらなければ一種の病気でしょう」と切り出したのに対し、小林秀雄が不快感をあらわにして反論する有名な論争が印象に残っています。
江藤「じゃあれはなんですか。老年といってあたらなければ一種の病気でしょう」
小林「あなた、病気というけどな、日本の歴史を病気というか」
江藤「日本の歴史を病気とは、もちろん言いませんけど、三島さんのあれは病気じゃないですか。病気じゃなくて、もっとほかに意味があるんですか」
小林「いやア、そんなこというけどな、それなら吉田松陰は病気か」
江藤「吉田松陰と三島由紀夫とは違うじゃありませんか」

戦前~戦後の批評家としての揺るぎない地位を確立した小林と、小林の後継者と見做されている江藤のこの論争はその迫力が伝わってくるようなスリリングなものでした。
更に三島事件については、事件の翌朝の毎日新聞の一面全体に渡って司馬遼太郎の三島批判の記事が掲載された記憶も鮮明に残っています。(この記事を書く事に対して司馬は嫌がったが、新聞社が無理に頼み込んだそうです)

〈最後に〉
今回片山杜秀の本をきっかけに、三島由紀夫が自衛隊に乗り込んで割腹自殺をした件について再び考えてみました。
当時大学生だった私の体験から、今回の片山杜秀の議論が単なる「三島由紀夫論」ではなく、1960年代後半から1970年初頭に至る日本の空気を、後からもう一度見直す作業になったと思います。
当時の感覚からすれば、三島事件はたしかに「異常な事件」でした。
安保反対運動、大学紛争、左翼と右翼、ベトナム戦争……政治が日常生活のすぐそばにあり、若者が政治的言葉を盛んに口にしていた。その中で、作家が自衛隊に乗り込み、割腹するという出来事は、あまりにも突出していた。
今回、片山杜秀の本を読んでから振り返ると、「突然、三島が狂気の行動に出た」という一枚の写真ではなく、
「三島という人間が、戦後の日本の中で、何を求めて少しずつ行動の側へ移っていったのか」という長い動画として見えてくる。ばらばらに見えていた三島の行動が、一つの方向性を持っていたことが見えてきます。さらに手元にある未読の「三島由紀夫・石原慎太郎全対話」を読めばもっと鮮明に見えて来る気がします。

知識人のこの事件に対するの評価にしても、以下の景色が見えてきます。
片山杜秀=「三島の身体と行動」という事からアプローチしているが、片山を他の人に置き換えると・・・
司馬遼太郎を置くと、「美を地上に降ろす」という問題が見える。
江藤淳を置けば「個人の精神と戦後」という問題になる。
小林秀雄を置けば「それを歴史としてどう受け止めるのか」という問題になる。
それぞれ違った角度から三島事件にアプローチし、違った評価をしていたのは、興味ある発見でした。

2026年8月29日土曜日

読書メモ 「大論争 この国の守り方」片山杜秀

   戦後日本の「戦争と平和・安全保障・アメリカ」ついての論争

             

著者:片山杜秀
出版:文春新書

日本の戦後を、「戦争と平和・安全保障・アメリカ」という切り口で、論敵であったり、明らかに対極的であったり、始めは近かったのにずれていったりする人達を対比させています。
著者の人物の対比の妙、そしてその洞察力には舌を巻きます。

① 南原繁と小泉信三
講和条約をめぐる南原の全面講和論と現実主義の小泉の多数講和論の考え方の相違。
現代から振り返れば、小泉の方が正しい判断だと思います。ただ全面講和の主流派の考え方は非武装中立論とセットになっていますが、南原は武装中立なのが異色で面白い。

② 山本七平と会田雄次
山本は一兵卒の目からみる日本の軍隊の非合理性を訴え、会田はイギリスのアーロン収容所での捕虜になった体験から。会田はアングロサクソンは捕虜に暴力を振るうような事はしないが、内側からでなければ見えない差別(有色人種を猿や犬と同じように人間と見なさない、また非欧米人は合理的な判断ができない等)の凄さを訴える。

③ 福田恒存と清水幾太郎
講和条約問題や60年安保では非武装中立論のオピニオンリーダーであった清水が核武装論に転じる背景(現実のソ連の侵略政策や、60年安保で丸山真男は岸を退陣させたことで成功だとするのも清水からみれば裏切りであった)と、保守として一貫して揺るぎない福田が、それを一刀両断に切り捨てる凄さと清水への思いやり。

④ 石原慎太郎と江藤淳
終戦時にともに12歳であった両者で、戦後の混乱期、そして高度成長期に青春期を過ごす。若くして頭角を現した二人の思想は共に保守だが、作家と批評家という違いだけでなく、性格も全く違う二人の共通項はアメリカからの自立。その背景を浮かび上がらせる。

※追記〈三島由紀夫vs石原慎太郎〉
この章で、脱線した話だが三島と石原の比較は一つの章ができるほど面白かった。
著者の見立ては三島は石原にコンプレックスを抱いており、常に石原の後追いで対抗しようとしている(スポーツ・映画出演・監督等々)。
これについての詳細は次回のブログで述べます。

⑤ 大江健三郎と吉本隆明
共に左派だが心情左派の大江と極左の吉本の違いが際立つ。吉本の心情左派への批判の凄さも見ものです。
別の本ですが極左の吉本と保守の論客である江藤は、お互いにリスペクトし5回の対談を行っています。「吉本隆明 江藤淳 全対話」(中公文庫)もお薦めです。

2026年8月2日日曜日

映画 開戦前夜(石井裕也 監督・脚本・編集)

映画 「開戦前夜」 石井裕也 (監督・脚本・編集)
(原作:「昭和16年の夏の敗戦」著者:猪瀬直樹

















原作はかなり以前に読んだので、細かい内容は忘れましたが、それでもかなりの衝撃を受けた本でしたので、映画も初日に見てきました。
深刻なテーマを扱った映画で、2時間以上の上映時間ですが、緊張感あふれる内容で、最後まで一気に見せてくれます。
最後の空襲で焼け野原になった場面を見ながら、何でこんな負けるのが分かっている戦争に突入してしまったのかと、自然に涙が湧いてきました。
総力戦研究所が「日本必敗」という結論に到達しながら、その警告が国家を止める力を持たなかったことこそ、この映画が訴える最大の悲劇であり、同時に現代にも通じる重い教訓ではないでしょうか。

〈あらすじ〉・・・ネタバレ
1941(昭和16)年4月、真珠湾攻撃の8カ月前。官僚・軍・民間から選りすぐられた若きエリートたちが、内閣総理大臣の直轄機関「総力戦研究所」に招集された。彼らに与えられた任務は“模擬内閣”を結成して日米が開戦した場合の戦局をシミュレーションし、その結果を近衛内閣に報告すること。宇治田(池松 壮亮)を始めとするメンバーたちは、国家機密レベルのデータを駆使した激烈な議論の末、「日本必敗」という衝撃的な結論にたどり着く。しかも彼等は当時欧州を席捲していたドイツの敗北まで予想していた。
彼らの「敗北という見通しから戦争回避すべし」という報告に反して、既にアメリカからは日本への石油禁輸処置が打ち出され、時代の空気は彼らの意図とは反対の方向へ流れていく。そうした中で、近衛が内閣を投げ出し、東條英機に組閣の命が下る。

この場面は、以前読んだ「木戸幸一日記」に書いてあることが忠実に再現されている。天皇や木戸が東條に組閣を命じた意図は、陸軍を抑えるためであるが、東條もその意向に沿って動こうとする・・・そうした意図に反して、マスコミは戦争を煽るような形で世論を扇動し、陸軍もそのような動きと歩調を合わせ、東條でさえ身の危険を感じるほどになる。得体の知れない戦争への熱気が日本全体を覆い、時代は時間と共に戦争に向かっていく。
アメリカから石油の全面禁輸処置に続いて、11月にはハル・ノートを突きつきられ、東條も開戦へ舵を切るが、結果は「総力戦研究所」が机上で出した結果とほぼ同じになる・・・原爆の投下以外は・・・

〈余談〉
最近、高坂正堯の遺作となった「世界史の中から考える」を読んでいると、太平洋戦争に関して「真珠湾の攻撃」「ハル・ノート再考」という章があった。アメリカ側からの考察である。

そこでの高坂の見立ては、ドイツが快進撃を進め、フランスが降伏し、イギリスも追い込まれていた欧州の戦争に、ルーズベルトは参戦したかった。ただ、建前としては「アメリカが攻撃されない限り、戦争はしない」と語っていた。つまり当時のアメリカは孤立主義、すなわち旧世界(欧州)の権力政治にアメリカは関与しないという建国後まもなく作られた原則だった。
当初、ルーズベルトはまずドイツを挑発しようとした。イギリスに駆逐艦五十隻を与え、それを輸送する際、アメリカ海軍が護送した。ドイツが潜水艦か他の方法で、その艦隊を攻撃しても当然だった。第一次世界大戦ではアメリカは中立を続けたが、アメリカ客船をドイツの潜水艦が撃沈したため、アメリカが参戦した前例があった。
今回は、ドイツはその挑発に乗らなかった。
その結果、ルーズベルトは「戦争裏口説」と呼ばれる政策を考えるようになった。すなわち、日本を挑発し、それをきっかけに日本と同盟関係にあったドイツと戦うシナリオである。
そのもっとも顕著な例が有名な「ハル・ノート」である。ハル国防長官は当時行われていた日米交渉の最後になって、従来の交渉の一致点を全て無視して、始めには提示しなかったような最後通牒とも言える厳しい条件を突如だしてきた。
アメリカはその時点で、日本と戦う意志を固めていたのは事実のようであると、高坂は推測する。
さらに高坂は言う、以上の事から日本に責任がなかった事を意味するものでは全くないと。

2026年7月28日火曜日

講演メモ 「漱石の悲しみ」司馬遼太郎講演録より

          「菫ほど小さき人に生まれたし」

ここでは講演に対する感想というより、明治における日本語の言文一致運動の流れを中心に論旨を纏めています。
その日本語文章の完成者と言われている「漱石の悲しみは何だったろうか?」を考えていただけたらと思います。

 「漱石の悲しみ」の講演の論旨
明治時代は、全ての事象や概念(芸術や政治だけでなく色恋沙汰まで)を表現するための新しい日本語(言文一致体)を試行錯誤した混迷の時代でした。

今の我々からは想像しにくいのですが、当時の日本人は、すべて七五調か八六調の馬琴崩しの文章しか持っていませんでした。
そして坪内逍遥が「小説神髄」を書き、逍遥に勧められて二葉亭四迷が言文一致を目指して「浮雲」を書きます。日本語が、文章として口語になった革命的なものでした。ただこの「浮雲」も三馬を横に置いて書いたらしい。近代小説の夜明けにしては寂しい話です。

一方正岡子規は、「漢文にしても江戸時代の文章にしても、言わんと欲する事があって書いているのではなく、文章という美学的作業をやっている。ただ名文を連ねているだけだ」と主張し、「文章というものは、言わんとするためにあるのだ」と考え、「山会」という勉強会を始めます。正岡子規、高浜虚子、伊藤左千夫など、そこへ漱石も顔を出していた。鷗外も来たことがあるそうです。子規の考え方、つまり「写生」という方法が、漱石に事物や人間を観察して描く姿勢を与えたと言えます。

その「山会」で高浜虚子がたまたま漱石に「ホトトギス」に小説を書いてみませんかと勧め、「吾輩は猫である」の誕生に繫がります。
その後、漱石は書く毎に文体やテーマを変えて行きます。
「三四郎」になると明晰な文体で書かれ、今読んでも非常に面白い。司馬は「三四郎」によって、日本語の近代の散文は一つの完成を見たと評価しています。

この講演で、漱石の文体は三つの流れが重なってできたものだというのが見えてきます。
江戸文学・日本古典・・・「吾輩は猫である」「坊ちゃん」:江戸の滑稽本や落語
漢文・漢詩・・・・・・・「草枕」:美文調の文体
英文学・・・・・英文学から学んだのは「文体そのもの」より、「小説とは何か」という考え方。特に、イギリスの小説では、①人物の心理を描く ②会話によって性格を表す ③日常生活を細かく観察する・・・という近代小説の伝統がすでにありました。
漱石はこれを見て、「日本語でもこういう小説を書かなければならない」と考えたのだと思います。しかし、日本語でどう実現するかは、漱石自身が試行錯誤して作り上げました。
さらに漱石は、「それから」「門」「こころ」「明暗」へ進むにつれて「近代人の孤独」「個人のエゴイズム」という人間の普遍的な、重要な問題に踏み込んでいきます。

その日本語の散文の完成者である漱石も、当初は行きたくもないロンドンに行き、異文化というよりも当時の世界の覇権国家との出会いによって衝撃を受け、打ちひしがれて帰ってくるわけです。だから漱石はその後、英文学については失望や挫折というより縁切りをしています。漱石という人は明治時代に立身出世のカードを全部持っていた人で、それを全部捨てた人です。
その漱石に・・・「菫ほど小さき人に生まれたし」・・・という俳句があります。
すみれは日本の「古今集」にもあまり出てこない、目立たない花です。漱石はその花を見て、来世にもう一度生まれ変われるならと・・・この俳句を作ったのでしょう。
司馬は、この「菫ほど小さき人に生まれたし」という一句に、近代という巨大な文明を知ってしまった漱石の、静かな孤独と悲しみを見たと思います。

〈余談〉
前回のブログで取り上げた水島美苗の「日本語で書くということ」でも書きましたので、繰り返しになりますが、再度掲載します。
漱石は晩年「明暗」を書いている時は、午前中に執筆し、午後は漢詩を読んで気分転換を図っていたそうです。
漢文に親しんで育った漱石が英文学と出会い、その衝撃を受け、困惑し、最後には反発していった気持ちが少しだけ分かったような気持ちになりました。

以上、講演の内容をダイジェストしただけですが、この講演は2時間半にもおよぶ長時間の講演で、聴衆を飽きさせないために他にも色んな事を言っています。面白い講演なので、興味のある人は是非原文を読んでいただきたいと思います。