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2020年8月24日月曜日

写真+俳句 季語のある風景-空蝉

          季語のある風景・空蝉


「季語のある風景」と銘打った「既存の俳句と私の写真をコラボ」した新しいシリーズを始めます。例えば芭蕉の句と私の写真とか・・・少し気恥ずかしい面がありますが・・・

今回は初回なので前口上が長くなりますが、お付き合い下さい。
テーマは「季語」であったり「季節」そのものになると思います。
このシリ-ズで苦労しますのは、数多くの写真がないと、なかなか既存の俳句との組み合わせが上手くいかないという課題がありますが、じっくりと取り組んで行きたいと思います。
また私自身の写真の撮り方が変わってくる可能性もあります。

第一回目のテーマは「空蝉(うつせみ)」です。
「空蝉」は夏の季語ですが、過去に撮影した写真を見るとなぜか9月に撮影したものが多いのです。蝉が地上に這い出て来る数が、夏の最後の方に多いのかも知れません。

「空蝉」の語源について文藝評論家の「山本健吉」は、以下のように説明しています。
 (空蝉は)古来より空しいこと、はかないことのたとえに使っている。「万葉集」に
 「うつせみ」を「空蝉」「虚蝉」などの字を当てたことから、蝉のぬけがらへ連想が
 いってしまったが、もともと「うつせみ」とは蝉とは関係のない言葉で、音を借りた
 だけなのである。

話が脱線しますが、一昨年亡くなられた「大岡信」によれば、古来より秋が来たのを歌人はどのように感じていたかと言うことを、以下のように述べています。(この話は以前にも書いたことがあるので、読まれた方は重複しますが、ご容赦をお願いします)

   秋来ぬと目にはさやかに見えねども
         風のおとにぞおどろかれぬる   藤原敏行

  古今集のこの歌が及ぼした影響は甚大で、立秋とは、すなわち「秋風が吹く」ことだと
  なったくらい大きな影響を与えた。
  時の移り行きを、目ではなくて「風」という「気配」によって知るという、より内面的な
  発見が、後世の美学に影響を与えた。

一方私はと言えば、秋を感じるのは「風」ではなく、「蝉の鳴き声」で感じることが多いのです。
これは私の感性だけの問題ではなく、最近の酷暑の影響で、立秋を過ぎても風は熱いのです・・・夜になっても。
まさにジブリ(宮崎駿がいうサハラ砂漠の熱風<ghibli>)のような風です。

盛夏の頃には、アブラゼミが「シャーシャー」と鳴き、そのうち、蜩や法師蝉(ツクツクボウシ)の鳴き声が交錯し始める。この蝉の鳴き声を聞いて、初めて秋が来たと安堵します。
その時期に元荒川の堤防沿いを歩くと、蝉の抜け殻が沢山見つかります。
そのような背景もあって、「空蝉」を取り上げた次第です。
 (秋の季語の「蜩」や「法師蝉(ツクツクボウシ)」の写真が沢山あれば良いのですが、
  写真が無いので空蝉になったという事情もあります)

前口上が長くなりました。以下ご覧下さい。









2020年8月23日日曜日

写真 釣りをしない人への釣りの話(本・映画・写真)

『オーパ!』に魅せられた人々



私は釣りはしませんが、開高健の「オーパ!」「フィッシュ・オン」「もっと遠く!」等々の一連の釣り紀行文学の愛読者であり、また映画では、ロバート・レッドフォード監督の珠玉の釣りの映画「リバー・ランズ・スルー・イットA River Runs Through It)」の大ファンです。

オーパ!」とは、開高健が、ブラジル・アマゾンに釣り紀行をした時に、大物の魚を釣り上げた際に、現地の人(ブラジル人・ポルトガル語)が発する驚きの言葉を、この釣り紀行文のタイトルにしたものです。
 因みに「fisy on」を辞書で引いても載っていません。
「(魚が)掛かった!」「(魚が)来た!」という時に使う、釣り人達の間で使われている言葉のようです。

作家・開高健の魅力は、その珠玉のような文章の巧さ(遅筆と言われているが)と、1965年のベトナム戦争のルポで九死に一生を得た「ベトナム戦記」や釣りのために世界を駆け巡る「釣り紀行」等のエネルギッシュな行動力が、読者を未知と魅惑の世界へ導いてくれます。

一方、映画の「リバー・ランズ・スルー・イット」は、アメリカ・モンタナの雄大な自然とフライ・フィッシングを通じて描かれる兄弟愛、釣り人の後方にある森の陰を巧みに利用し、釣り糸に反射する流れるような光の動き・・・
また、そこには古き良きアメリカがありました。
この映画は若きブラッド・ピットのメジャーデビュー作でもあり、監督のR・レッドフォードとのイケメン俳優の世代交代を感じさせるものがあります。

今回気づいたのは、上記のことに影響されているのか、これまでに撮影した中に、意外と多くの釣りの写真があったことです。
以下ご紹介します。

日本のフライ・フィッシングは、日光湯ノ湖で始まりました



ライン(釣り糸)の美しさに魅せられて

水面の反射も美しい

目の前を悠々と泳ぐ大きな獲物・・・

「はた迷惑」ならぬ「釣り迷惑」

元荒川の釣り人(こちらはフライ・フィッシングではありません)

桜に囲まれて・・・釣り人の「我が世の春」



2020年8月21日金曜日

街道を撮りにゆく 丸沼高原(標高2000mの涼を求めて)

          「天空テラス」へようこそ


この連日の酷暑で、ただひたすら楽をして「涼」を求めようとした結論が、日本百名山の一つ「日光白根山」(2578m)に登ることではなく、標高2000mの「天空テラス」と称する場所からこの山を眺めることであった。

奥日光湯元を横目に見ながら、金精トンネルを抜け、菅沼(標高1731m)辺りでは、気温は既に22℃と下がっていました。
この先の丸沼高原(1390m)からロープウエイで、一気に2000mまで駆け上がるという魂胆です。
この先は写真でご紹介いたします。

 ここが目的地の「天空テラス」  眺めは最高です。

 600mの高度差を一気に登ります

背景の日光白根山は2548mあり、関東以北で一番高い山です。

 ここには秋の空が広がっていました。

山頂カフェでの食事(フレンチトースト)

ハクサンフウロ

ホタルブクロ

名前は分かりません? 知っている方が居れば教えて下さい。


トリカブトもありました

帰りの金精峠では「捩花(ネジバナ)」という珍しい花のオマケまで付きました。

丸沼高原は群馬県なので東京から遠いというイメージや、東京近郊の人は日光地区では湯本温泉や金精峠が最奥という感じで、その先までは行かないようです。
ここは隠れた穴場という感じがしました。
山を登る人からは邪道に見えますが、真夏に楽をして2000mの高原で涼を求めたい人には是非お薦めの場所です。

2020年8月16日日曜日

読書 「新聞記者」望月衣塑子著

          「新 聞 記 者」

評価 ★★★☆☆
著者:望月衣塑子
出版:角川新書

映画「新聞記者」が、2020年3月に行われた第43回日本アカデミー賞で、の最優秀作品賞、最優秀主演男優賞、最優秀主演女優賞などの6つの賞を受賞した。
快挙である。

それまで「新聞記者」という映画を全く知らなかったが、知人からもこの映画を薦められていたので、是非映画を見たいと思っていた時に、本屋で同じ書名・作者の本があったので、てっきり映画の原作と思って買ってみた。
しかしこれは、映画の原作ではなく、映画はこの本の一部をベースに映画用に別途書き下ろしたもので、この本と映画は全く内容の違うものだと読んでみて知った。

とは、言いながら著者の望月衣塑子の生い立ち、何故新聞記者になったのか、またその現場で、何がなされているのか、それに対して著者はどのように向き合っていくのかという姿勢というか、彼女の溢れんがばかリの熱意が明確に伝わってくるのは好感が持てた。

ただし、内容的には、森友・加計問題を初めとして、現政権への批判の思い入れが強いのは分かるが、気持ちだけが空回りしているのではないかと感じるものがある。
特に、彼女を有名にしたのは、首相官邸での菅官房長官への質問の食らいつき方なのであるが、YouTubeで菅官房長官への質問の様子を見たが、感情だけが先走り過ぎている感じがした。
菅官房長官への質問だけしか道がないという切羽詰まった感じが過剰すぎて、もう少し冷静な覚めた眼で見るスタンスが欲しい気がした・・・が、それだと「望月衣塑子」でなくなってしまうのかも知れない。

2020年8月9日日曜日

写真 「武蔵野丘陵森林公園-4」番外編

    「武蔵野丘陵森林公園-4」番外編

今回は「武蔵野丘陵森林公園」シリーズの1~3に掲載出来なかった写真を掲載しました。

①同公園へ行く途中の道で、見かけた「おにゆりと&アゲハ蝶&水滴」のコラボです。


②園内で咲いていたやまゆり以外の花です。










ヒヨドリバナ
コリウスの見事な植え込みがありました。
③園内にいる動物です。

④このシリーズのNo3で掲載出来なかった「やまゆり」です。





             




2020年8月8日土曜日

読書 「100分de名著『共同幻想論』」吉本隆明

                      100分de名著「共同幻想論」


学生時代に(粋がって)「共同幻想論」を買ってきて、読んだことがあった・・・内容は全く理解できずに、すぐにギブアップした記憶が残っています。

あれから長い年月を経て、今回は再チャレンジ。 
吉本の戦争体験(というか軍国少年が戦争に参加出来ずに終戦になり、価値観の大転換が起こったこと)から説き起こし、「個人幻想」「対幻想」「共同幻想」に分類し、「遠野物語」「古事記」からの引用の内容を噛み砕いてくれたNHKの編集が良かったので、バカな私にもそれなりに理解できたのでは??? と勝手に思っています。
これにより以前に読んでよく理解できていなかった「吉本隆明・江藤淳全対話」の内容がかなり理解できるようになった。

ただ、吉本隆明が戦後最大の思想家と評されているが、「共同幻想論」を初め、吉本の著作は、一般にはそれほど読まれているとは思えない。
以前、内田樹と高橋源一郎の「吉本隆明と江藤淳―最後の批評家」という対談で、内田が東大文Ⅲのとき、殆どのクラスメイトが吉本隆明の本を読んだことがないと言う記述があった。
恐らくそれが実態で、1970年代前後の全共闘のバイブルでもあり、極左という位置づけで、幾分当時のマスコミに祭り上げられたのでは・・・
そういう意味で「戦後最大の思想家」というが、本を読まれていない、もしくは読んだとしても読者が理解できていないということを考えると、影響力という意味では、どうなのだろうか・・・と、ふと疑問が湧いてきた。

話が脱線するが、吉本隆明の江藤淳への追悼文を読むと、この極左と思われていた人が、保守の論客であった江藤淳を本当に信頼していたことが良くわかるし、日本の状況がどうかとか、知識人と思想のあり方ということに関しての二人の考え方のプロセスは殆ど一緒だったように思う。ただ最後の処方箋の所で、右と左に別れただけのような気がします。

今回、この本を読んで、学生時代にふと戻った感覚がして、当時の状況を含めて懐かしく思い出した次第です。

読書 「京都の壁」 養老孟司

         「京 都 の 壁」

評価:★★☆☆☆
著者:養老孟司
出版:京都しあわせ倶楽部

タイトルからして、京都の閉鎖性もしくは、まさに京都の「壁」を批判する本かと思いしや、極めて常識的な内容で、「バカの壁」で一世を風靡した著者の本とは思えない。
同じような京都を扱った本でいうなら、「京都ぎらい」「京都まみれ」等の著者である井上章一の執拗な、あくの強い文章を読んでいると、何と常識的な、平板な本のように感じてしまう。期待を裏切られた本である。 

例えば、「京都の閉鎖性」については、「京都だけが特殊なわけではない。むしろ日本人特有の性質を、今も色濃く残しているのが京都ではないでしょうか」と、極めて遠慮がちというか、「京都の壁」ではなく、京都を擁護している・・・こういう箇所が随所にみられる。 

鎌倉生まれの鎌倉育ちの元東大教授の著者が、たまたま「京都国際マンガミュージアム」の館長になったので、それを契機に書いた本なので、特に京都の知見があるとか、こだわりがある訳ではないので、致し方ないと思うが、このタイトルの「京都の壁」はいただけない。
これは著者だけの責任ではなく、出版社の売らんがための意向もあるは思うが・・・。
養老孟司の本の愛好者は別にして、全くお薦めできない本です。