季語のある風景・空蝉
「季語のある風景」と銘打った「既存の俳句と私の写真をコラボ」した新しいシリーズを始めます。例えば芭蕉の句と私の写真とか・・・少し気恥ずかしい面がありますが・・・
今回は初回なので前口上が長くなりますが、お付き合い下さい。
テーマは「季語」であったり「季節」そのものになると思います。
このシリ-ズで苦労しますのは、数多くの写真がないと、なかなか既存の俳句との組み合わせが上手くいかないという課題がありますが、じっくりと取り組んで行きたいと思います。
また私自身の写真の撮り方が変わってくる可能性もあります。
第一回目のテーマは「空蝉(うつせみ)」です。
「空蝉」は夏の季語ですが、過去に撮影した写真を見るとなぜか9月に撮影したものが多いのです。蝉が地上に這い出て来る数が、夏の最後の方に多いのかも知れません。「空蝉」の語源について文藝評論家の「山本健吉」は、以下のように説明しています。
(空蝉は)古来より空しいこと、はかないことのたとえに使っている。「万葉集」に
「うつせみ」を「空蝉」「虚蝉」などの字を当てたことから、蝉のぬけがらへ連想が
いってしまったが、もともと「うつせみ」とは蝉とは関係のない言葉で、音を借りた
だけなのである。
話が脱線しますが、一昨年亡くなられた「大岡信」によれば、古来より秋が来たのを歌人はどのように感じていたかと言うことを、以下のように述べています。(この話は以前にも書いたことがあるので、読まれた方は重複しますが、ご容赦をお願いします)
秋来ぬと目にはさやかに見えねども
風のおとにぞおどろかれぬる 藤原敏行
古今集のこの歌が及ぼした影響は甚大で、立秋とは、すなわち「秋風が吹く」ことだと
なったくらい大きな影響を与えた。
時の移り行きを、目ではなくて「風」という「気配」によって知るという、より内面的な
発見が、後世の美学に影響を与えた。
一方私はと言えば、秋を感じるのは「風」ではなく、「蝉の鳴き声」で感じることが多いのです。
これは私の感性だけの問題ではなく、最近の酷暑の影響で、立秋を過ぎても風は熱いのです・・・夜になっても。
まさにジブリ(宮崎駿がいうサハラ砂漠の熱風<ghibli>)のような風です。
盛夏の頃には、アブラゼミが「シャーシャー」と鳴き、そのうち、蜩や法師蝉(ツクツクボウシ)の鳴き声が交錯し始める。この蝉の鳴き声を聞いて、初めて秋が来たと安堵します。
その時期に元荒川の堤防沿いを歩くと、蝉の抜け殻が沢山見つかります。
そのような背景もあって、「空蝉」を取り上げた次第です。
(秋の季語の「蜩」や「法師蝉(ツクツクボウシ)」の写真が沢山あれば良いのですが、
写真が無いので空蝉になったという事情もあります)
前口上が長くなりました。以下ご覧下さい。