日本の醜さについてー都市とエゴイズム
評価:★★★★☆
著者:井上章一
出版:幻冬舎新書
全く纏めにくい本である。
この本に限らずこの著者の本は全てそうなのであるが・・・結論だけを纏めるのは簡単だが、著者はいろんな面白い例を繰り出して煙に巻く、その面白さを伝えるのが大変難しい。
著者は、冒頭で「
これから世間の常套的な物の見方にはむかう」と、見得をきる。
「いわく、日本人には強い自我がない。欧米人とくらべれば、自己主張は苦手である・・(略)・・逆に全体の気配を察して、自分の立ち位置を探ろうとする・・社会科学めかしてあらわせば、集団主義的な性質を日本人はおびている。逆に、欧米人は個人主義的であるという」
この定説を都市景観という視点から突き崩していこうと試みているのが本書である。但しどこまでが読者に受け入れられるかは???である。
欧州と日本の都市景観の比較
・フィレンツェと京都、ヴェネツィアと大阪、ローマと東京等ヨーロッパの街並みと日本の都市景観の比較。我が国が誇る古都京都でさえ、都市景観という視点で見れば、落第であることがよくわかる。
・ドイツ軍に破壊しつくされたワルシャワの街を、ポーランドでは1760年代の景観に復元したという話。
・第二次大戦で、イタリアはローマが空爆を受けた翌日には、ローマの遺跡を守るために休戦を宣言している。日本では初めての空爆後3年4ケ月も抵抗をし続けた。イタリアが休戦を公表したあとに日本の大本営はこの国を口汚くあざけった。そう叫んだ大本営に、ローマの歴史遺産への想いをはせた者は、絶無であったろうと・・・我が国の文化的貧困を著者は嘆く。
・また第二次大戦のパリの解放しかり・・・ここで私はノンフィクション小説(映画にもなった)「
パリは燃えているか」を思い出した。ヒトラーのパリ爆破命令に背いて、連合軍に無条件降伏をしてパリの街を守ったドイツの将軍がいた。
話が変わって、現代の日本の建築行政は、安全面の配慮に神経をとがらす、火災の避難準備、建築資材の確認、風圧への備え、地震対策等々、だが、意匠面の要請は殆どない。街並みとの調和を求められるケースはまれである。
表現の自由の頂点へ・・・大阪・道頓堀
その結果、勝手気儘な色や形のビルがならび、ふぞいな街並みが出来上がる。そんな日本的傾向は、大阪の道頓堀あたり(手足が動く大きなカニや吊るされた大きなフグやグリコのネオン等のバラバラで猥雑な街並み)で頂点に達する。「欧州の建築家には、皮肉も込めてのことだろうか、こう感嘆するものもいる。
ヨーロッパではありえない表現の自由が、ここにはある・・(略)・・あの景観を、大阪が生み出した風変りなそれとして、受け止めるべきではない。あそこには、日本の近代の姿が、集約的に投影されている」
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大阪道頓堀の街並み |
かくて著者は「
建築が『利益のためだけにつくられる』。ヨーロッパではありえない自由を、日本は勝ちとった・・・近代の日本はブルジョア革命をなしとげたのだ」とうそぶく。
都市景観については、私は素人だが、そのような概念そのものがなかった日本とヨーロッパを比較するのは、そもそも無理な気がする。
特に日本は木造建築主体で、台風・地震・火事にもてあそばれて、大陸の頑丈な岩盤の上に作られた石造りのヨーロッパの建築とは比較しようがないと思うが、それを真面目に反論しても、この著者の場合意味がないように思う。
著者は、従来思いつかなかったような例を並べ立てて、世の中の定説、つまり既存の考えを引っ掻き回すことに、喜びを感じているのかもしれない。
つくづく食えないオヤジだと思うが、視点を変えて、このような見方もあるなと、面白がって読むと、読書の楽しみ方に幅が出来ると思うのですが、如何でしょうか?