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2022年12月8日木曜日

読書 美しき愚かものたちのタブロー 原田マハ

著者:原田マハ
出版:文春文庫

上野の国立西洋美術館を造るきっかけとなった「松方コレクション」にまつわる秘話。
本著の最後に「この物語は史実に基づくフィクションです」という断りがあるが、松方幸次郎のアドバイザーとして、タブロー(絵画)の買い付けに同行した主人公の「田代雄一」を除いて実名だそうだ。その「田代雄一」にもモデルが実在しており、後の日本を代表する美術史家の「矢代幸雄」その人である。

川崎造船所の社長であった松方幸次郎は、大正から昭和初期にかけて、私費を投じてイギリス・フランス・ドイツ等で膨大な美術品を収集したが、松方自身が昭和恐慌で、会社が倒産寸前に陥り、自身が会社の経営から身を引くことになる。そこへ第2次世界大戦が勃発して、ナチスがフランスを席巻し、それと共に松方コレクションの行方もわからなくなった。

松方コレクションは、戦後になりフランス政府に没収されていたことが分かる。
敗戦国となった日本は、フランスにとって敵国であったため、在仏の松方コレクションが、フランス政府に没収されたということだが、このコレクションは日本政府のものではなく、松方個人の所有物であるので、裏には貴重な名画をフランス国内から持ち出されることへの懸念があったと推測される。

田代雄一が、その返還交渉の代表として吉田茂から直々の申し入れを受けるところから物語が始まる。
前半は、田代が松方と一緒に絵画を買い求めた時の回想が中心で、印象派の巨匠モネをアトリエに直接訪ねて本人と交渉した事や、「ゴッホの寝室」の絵を見つけた時の感動などが伝わってくる。

物語の終盤になって、返還交渉でパリに来た田代が宿泊しているホテルへ、不意に一人のみすぼらしい老人が訪ねてきた。彼(日置釭三郎)は松方の命を受けて、松方コレクションを守るため、数奇な運命に翻弄されながらも、懸命に松方コレクションを守り抜いた男だったことが、次第に明らかになってく。
ヨーロッパ戦線でフランスが降伏し、フランスに進駐したナチスの手からどのようにして、そのコレクションが守られたかが、次第に明らかになるくだりは、まさにミステリータッチであり、スリリングである。日置は戦争や松方コレクションのために、その後の人生が大きく狂ってまでも、美術品を守り抜いたのだった。

一方、戦後の返還交渉は難航し、最終的にフランス政府は、松方コレクションの「返還」ではなく、日本への「寄贈」という名目のもとに、ゴッホやゴーギャン等の傑作と言われる名画の返還を認めなかった。だが田代は自分の思い入れが強かった「ゴッホの寝室」など数点に絞って、返還を強く求めたが、それも認められなかった。しかし松方が構想していた「共楽美術館」が、姿を変えて今日の国立西洋美術館の建設に繋がっていった。

これらの人々、つまり松方幸次郎、田代雄一(矢代幸雄)、吉田茂、そして美術品を守ることに後半生をかけた日置釭三郎がいなければ、我々が松方コレクションや国立西洋美術館を目にすることはなかったであろうことは容易に想像できる。
作者はこれらの美しきタブローに魅せられた愚か者たちに、最大のリスペクトを払い、「美しき愚か者たちのタブロー」というタイトルを冠した。

2022年12月3日土曜日

読書 完全読解 司馬遼太郎『坂の上の雲』 佐藤優・片山杜秀(対談)

著者:佐藤優・片山杜秀(対談)
出版:文藝春秋(単行本)

司馬遼太郎の「坂の上の雲」は、私の一番好きな本の一つです。(もっとも読んだのは大昔ですが・・・)
その本を月刊文藝春秋で、佐藤優と片山杜秀の対談で取り上げていたものが出版されたので、どんな対談か楽しみにして手にした次第です。

この「坂の上・・・」は筆者(司馬遼太郎)が、第4巻のあとがきで「この作品は、小説であるかどうか、じつに疑わしい」述べているように、通常の小説ではない。

通常の長編小説の延長線上で見れば、構成上の破綻があるし、その点では失敗作といえるかもしれないが、司馬の作品の中では「竜馬がゆく」に次いで人気が高く、累計で2000万部近く売れています。
何故かと言えば、読んだ人なら分かりますが、小説にグイグイと引き込まれて、のめり込んで行きます。司馬の筆力の賜物です。

また一方で、この本は司馬の作品の中でも一番物議を醸している小説です。本文の中で「乃木将軍」を愚将と痛烈に批判したことで、保守論客であった福田恒存から猛烈な批判を浴びたり、更に戦後歴史学の主流であった「講座派マルクス主義」と明治時代の認識に差があることで批判を浴びています。
近年は、前述のマルクス主義の戦後歴史学に批判的であった「自由主義史観」の言論人が、司馬作品、中でも「坂の上・・・」を「国民の正史」として見だしたことも論争が大きくなった原因のようです。
司馬とは関係のない所で、作者の意図しない方向へ進んでいるのは、読者として違和感を覚える次第です。

さて本題に入ります。構成は、以下の通りです。
序  章:今なぜ「坂の上の雲」を読み直すのか
第1章:乃木希典と東郷平八郎
第2章:夏目漱石と正岡子規
第3章:明石元次郎と広瀬武夫
第4章:日清・日露戦争と朝鮮半島

本著を読み終えた全体的な感じは、佐藤優の得意な「インテリジェンス」の分野に話が傾きがちで、「坂の上・・・」から外れた論点が多いように感じました。
まあ、佐藤優が登場してくれば、そちらに話が行くのは、出版社の思惑通りなのかも知れませんが・・・。

個別には、佐藤優が「日露戦争の白兵突撃はその後のヨーロッパでは模範とされ、第一次世界大戦の肉弾戦に繋がった」と述べているのは、大きな誤りで、彼はインテリジェンスの専門家であるが、戦史は門外漢というのが分かった。
この分野の専門家である永井陽之助によれば、「日露戦争には欧米諸国から多くの観戦武官が派遣されたが、その報告書は、敗戦国ロシアの後の赤軍とドイツ参謀本部を除いては、大半は本国では、無視され紙屑として捨てられた」
何故なら「極東の『猿』の戦闘などなんの参考になるかと、当代一流をもって任じていた戦略家たちは、頭からバカにしていた」そうです。
ただドイツ参謀本部は膨大な資料を作成し真剣に検討したが「将来の大規模な欧州戦争について結論を引き出すには、冒険に過ぎる」と結論づけた。
203高地は巨大なコンクリートに覆われ、周囲は遮蔽物もなく鉄条網に囲われた城塞であった。さらに最新式の機関銃や多くの砲弾が飛び交う修羅場と化し、世界最初の大規模な近代戦が行われた戦場であった。
これらの欧米各国の日露戦争(特に203高地の死者の多さ)を観戦した結果が反映されることなく、第一次世界大戦への悲惨さに繋がって行く。
この場面で、司馬は乃木への批判とは別に、乃木が傷つかないように密かに指揮権を取り上げ、日本軍の窮地を救った天才戦術家の児玉源太郎を描きたかったのだと思う。

一方、佐藤優が「坂の上・・・」は、ロシアの日本専門家の必読書というのは驚いた。
理由は、日本における「反露感情」がどのようにして醸成されているかを知るための材料だというが、これにも違和感を抱いた。「坂の上・・・」では、反露感情を醸し出すのとは反対に、日露戦争は南下するロシアに対しての祖国防衛戦争とは言っているが、個々にはロシア軍の司令官のクロパトキンに、好意的な見方をしているように、反露感情を醸成するような本ではないと思う。

本著は、全体的に、「坂の上・・・」の主題については違和感を抱く場面が多々あるが、むしろ本論から外れたところで面白かった。

2022年11月19日土曜日

読書 司馬遼太郎の時代-歴史と大衆教養主義 (福間良明)

           本質を外した司馬遼太郎論???


著者:福間良明
出版:中公新書

司馬遼太郎は1923年(大正12年)生まれなので、来年2023年は生誕100年になる。恐らく多くの特集や司馬遼太郎論の本が出るのではないかと思います。それはそれで司馬ファンにとっては歓迎すべきことで、楽しみにしています。

本書はそれの先駆けとして出版されたようです。
著者の論点には納得する点もあるが、それ以上に違和感を抱いた。
著者の論点を纏めると、以下のようなことだと思う。

<学歴・職歴>

司馬は旧大阪帝大を落ち、大阪外国語学校(現大阪大学外国語学部)へ。また、戦争により繰り上げ卒業で学徒出陣し、戦車隊に配属、復員後は、「朝日・毎日新聞」と言った一流紙でなく、新興新聞社に入社し、その後産経新聞へ移っている。つまり、著者は、司馬の学歴・職歴ともに「二流かつ傍流」ということが、エリートへの不信。つまりエリートが振りかざす「正しさ」や「イデオロギー」への嫌悪感へと繋がっていると言う。
ただ、会社勤めの経験もなく、いきなり学徒出陣で軍隊へ入った人は、復員した当時の混乱期に、一流会社に就職できないのは普通のことだと私は思うのだが、著者にはそういう観点は欠落しているというか、何が何でも「二流かつ傍流でエリートではない」ということを力説したいようで、執拗に繰り返し書いている。

<人々が何故司馬作品を手にしたのか>

司馬の作品が書かれたのは、高度成長期の中盤であり、生活水準の向上する実感があり、今後の経済的な進展を期待できる時代状況に通じるものがあったと著者は言う。
著者はマスメディアを専門としているため、高度成長期の社会状況や教養主義のブームにかなりのページを割いている。
だが実際に司馬作品が売れ出したのは、この高度成長期が終わりかけた1970年代以降なのである。その理由として著者は、前述のかなりのページを割いた話をあっさりと捨て去り、文庫本が一般化した時代になり、書店の棚に常時並べられるようになり、読者が手にしやすくなった。また司馬作品は、サラリーマンの通勤途上に読む「気楽なコマ切れ読書」に適していたという。
こんな説明だけで司馬作品が累計1億冊も売れるなら、他の作家の本も同じように売れるという理屈になってくる。他の作家の本は通勤途上ではなく、机の前で一気に読破したとは思えないが???

著者は経歴や社会状況だけで、司馬遼太郎を論じようとしている。確かにそういう面からのアプローチも必要だが、著者に完全に欠落しているのは、司馬作品の面白さや魅力を理解していないという点ではないかと思う。面白く感じるとか、魅力を感じなければ誰も本など読まない。
本著の中で、「小説でも史伝でもなく、単なる書きものに過ぎない司馬作品」という表現が出てくる。こういう表現が出てくるというのは、著者は司馬自身が、どのような小説を書こうとしていたかを全く理解していない。
講談社倶楽部賞を受賞した直後に司馬は以下のようなことを書いている。
「私は、奇妙な小説の修行法をとりました。小説を書くのではなく、しゃべくりまわるのです。小説という形態を、私のおなかのなかで説話の原型にまで還元してみたかったのです。その説話の一つを珍しく文学にしてみました。ところがさる友人が一読して『君の話の方が面白ぇや』、これは痛烈な酷評でした。となると私はまず、私の小説を、私の話にまで近づけるために、うんと努力しなければなりません」
司馬が目指したのは、こういう形態の読み物であり、従来の小説の観念からみれば、小説ではない読み物なのである。

これに関しては、劇作家であり評論家の山崎正和は司馬をよく理解していたようである。山崎は五百旗頭真との対談で「彼(司馬)の小説をお読みになればわかるんですが、晩年になるとますます座談調になっていく。そして語っている司馬遼太郎の語り口、同時に司馬遼太郎の肉体の存在感というものが見えてくるような言葉で語る」

また、司馬の最後になるエッセイである「草原の記」について「いろんな意味で、私は司馬文学を凝縮したような作品だと思うんです。まず座談調というものが徹底的になっている。したがってあなた(五百旗頭)がおっしゃったように、小説だか随筆だかわからないところへ入ってしまう。しかし司馬さんに言わせたら、逆説的無常観なんて、書いてしまったらそれまでだというところがあったかもしれない」「私(山崎)の言い方による逆説的無常観を、彼(司馬)が正面から書いた小説を読みたかった。『草原の記』には、その片鱗が現れている」

山崎正和に本格的な司馬遼太郎論を書いて欲しかった。

<司馬史観および歴史的事実>

また本書の最後の方に司馬史観のことや、歴史学者にやっと認められて司馬は一流になったという記述があるが、これについても「司馬史観」なるものを問われた時に、司馬は「私は歴史学者ではなく、小説家だ」と述べている。つまりフィクションや創造力がなくなれば、小説は面白くも何ともないということであろう。読者が司馬作品を読んで、それが歴史的事実だと思ってしまうのは、作家の力量の問題で、司馬の小説に歴史的事実を求めても何の意味も持たないということであろう。

2022年11月17日木曜日

読書 河のほとりで 葉室麟

著者:葉室麟
出版:文春文庫

葉室麟の「柚子は九年で」の次に出された2冊目の随筆集。

「源実朝」という項があった。著者は「近頃実朝が気になっている」と書いているので、著者の「実朝の首」を執筆する直前に書かれたものだろう。また2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」も11月は実朝を軸に展開している。次の日曜日には実朝は、甥の「公暁」に殺される場面になるのかも知れない。

著者によると、実朝に魅かれた文学者が多いという。なるほど「吉本隆明」「太宰治」「小林秀雄」が、「実朝」に関する評論を書いている。
太宰は「アカルサハ、ホロビノ姿デアロウカ、人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ」と。書かれたのは昭和17年。小林も戦時中に書いている。
戦時中の不思議な明るさに秘められた滅びの予感のようなものを文学者は感じたのであろうか。

最終章の「日々雑感」の「健康への出発」には、京都に仕事場を構えたが、一人暮らしで弁当ばかり食べているので、太って体調を崩した。「体調管理をして、なすべき仕事をしよう」と書いている。亡くなる5ケ月前に書いているのが、かえって切ない。

2022年11月15日火曜日

読書 利休の死ー戦国時代小説集(井上靖)

著者:井上靖
出版:中公文庫

「桶狭間」~「利休の死」までの約30年間の戦国時代をテーマにした短編集。
井上靖の本は、かなり以前に僅かだか何冊か読んだ記憶があるがはっきりしない。
今回久々に読んで、無駄がなく凝縮したその格調高い文体に魅せられた。
私の読書の狭い範囲での作家の文体のイメージがあるが、そのどれとも違う。
さすがにノーベル賞候補にもなったのもうなずける。
短編集なので、個々の感想は省略します。
 
以下、私の感じた自分流の勝手な作家の文体のイメージです。

司馬遼太郎:平明で分かりやすく、明るい雰囲気を醸し出す。分からないことでも分かった気分にさせられる。希代のストーリーテラーで、話術のような文体で人を酔わせる。

大江健三郎:かなり難解な書き方で、わざと分かりにくく書いているようにも思える。英語の関係代名詞の多い長文を翻訳したような文章に出会ったこともある。若いときならいざ知らず、今はこの作家の本は読めない。

開高健:型にはまった言い方を意識的に避けており、推敲に推敲を重ね、厖大な語彙とめくるめくばかりに多彩な比喩を駆使して、豊饒な文体に置き換えた文章。

江藤淳:作家ではないが、歯切れの良い江戸っ子風の文体は、さすがに評論家と頷かせる。ただ鋭すぎる面は否めない。

また、藤沢周平や葉室麟は、全体を通して人間としての温かみを感じさせる雰囲気を持っている・・・等々。

2022年10月26日水曜日

街道を撮りにゆく 2022八甲田山の黄葉③(田代平湿原)

     八甲田山麓の隠れたスポット


青森3日目は、八甲田山を挟んで城ヶ倉渓谷や酸ヶ湯温泉と反対側の「田代平湿原」へ行きました。時間の関係で田代平湿原の入り口部分だけになり、「グダリ沼」は断念しました。

青森市内から行く途中に「雪中行軍遭難碑」があります。
八甲田温泉(現在休業中)近くに、田代平湿原の入り口があり、そこから木道が続きます。
八甲田山の南側(城ヶ倉や酸ヶ湯温泉等)のブナの樹海とは、また違った雰囲気が味わえます。
以下、写真をご覧下さい。

「雪中行軍遭難碑」
新田次郎の小説「八甲田山死の彷徨」で有名です。明治35年、八甲田山で起きた陸軍の大規模遭難事件。199名の死者が出た悲劇を小説化。但し完全なノンフィクションではないという説もある。高倉健、北大路欣也主演の映画原作としても知られる。



湿原の入り口近くには八甲田山麓では珍しくシラカバが多くあります。
湿原の水は抜けるような透明度です。

湿原から八甲田山を望む
中央が八甲田大岳、左が高田大岳
湖沼群の一つ









ヒツジ草の紅葉

紅葉の奥に薄く雪を被った八甲田大岳




2022年10月24日月曜日

街道を撮りにゆく 2022八甲田山の黄葉②(蔦沼・地獄沼周辺)

    雨のブナからの贈り物・・・樹幹流


この日は曇りから雨、しかも霙(みぞれ)、そして夕方には晴れと目まぐるしく変わりました。ブナには曇りか雨が似合います。
以下、写真をご覧ください。(写真をクリックすると拡大します)

池には雨の雫の輪が広がります。
美しいブナ林は、雨の日にしか見られない姿があります。

葉っぱが受けた雨水が枝を伝い、幹、根本へと流れ降りてきます。


雨が降るブナの森を歩いた人だけが見ることが出来る自然の贈り物・・・それが「樹幹流」(じゅかんりゅう)














足もとには「森の神輿(みこし)

落葉を「苔の子供達」が協力して、みんなで担ぎます。









夕方になり、突然太陽が・・・


ブナが真っ赤に燃え上がります。
自然の摩訶不思議!!!

街道を撮りにゆく 2022八甲田山の黄葉①(城ヶ倉渓谷)

      城ヶ倉渓谷は黄葉真っ盛り


久々に八甲田山へやってきました。前にここの黄葉を見たのは、まだポジフィルムの時代だったので、かなり前になります。
東北の紅葉はブナが中心なので「紅葉」ではなく「黄葉」になります。
初めて東北の黄葉を見た時は全山を黄葉が覆いつくし、その迫力に圧倒され、かつ驚かされました。
以下、写真をご覧下さい。(写真をクリックすると拡大します)

城ヶ倉大橋









城ヶ倉大橋から見た八甲田山側
城ヶ倉大橋から見た岩木山方面
ブナの樹海が地平線まで続きます
ブナの森

黄葉も色とりどりで、麓に近いほど緑が多く、高度を上げるにしたがって黄色から段々と色が濃くなってきます

ブナの大樹











虹色の衣装を着たブナ

2022年10月7日金曜日

読書 「歴史学者という病」 本郷和人

著者:本郷和人
出版:講談社現代新書

著者は、磯田道史と同様によくTVに出演する東大史料編纂所の教授で、東大教授らしからぬヌーボーとした雰囲気で人気があるようだ。
「歴史学者という病」という仰々しいタイトルや、表紙の深刻そうな著者の顔とは裏腹に比較的軽い感じで読み進められます。

内容は著者の半生記とそれに絡めて、東大(というか日本の)歴史学の流れが述べられている。その中でのメインテーマは、「歴史を研究するということの意味について考える」という硬派のものであるが、そこへ時おり、大学院時代に奥さんに惚れ込んだ話や、現在の自分の上司が奥さんという自虐ネタを織り込んだりして、硬軟織り交ぜ内容を柔らかくもみほぐして読みやすい内容に仕上げている。

日本では、飛鳥・奈良・平安の3時代にかけ、時の律令政府の手によって「日本書紀(720年)」を始め、6つの国史が編纂・作成された。
その後の日本ではずっと国史の編纂が行われなかった。具体的には、宇多天皇が即位する887年から、幕末の1867年までを対象とする約980年間の国史はなく、明治34年以降、東大ではその間の日本の歴史をまとめようという壮大なプロジェクトが行われている。それを行っているのが、著者の所属する東大史料編纂所である。

その東大の歴史編纂の中で、時代により歴史の見方の変遷があり、著者は明治以降の歴史学の流れを四つの世代に分けている。  
第0世代 皇国史観の歴史学  
第一世代 マルクス主義史観の歴史学  
第二世代 社会史「四人組」の時代(網野善彦・石井進・笠松宏至・勝俣鎭夫)
第三世代 現在
そして第三世代の現代では、「実証主義」オンリーで、思考停止になっているとの批判が渦巻いている。

また現在の学者に必要な資質とは何かというと、研究者としての実力はもちろんだが、それだけでは駄目だめで、必要なのは、文部科学省を始めとして各方面から「競争的研究資金を得る」能力だという。
これは歴史学だけの問題ではなく、どの分野の研究者にも関係することだろうけど、歴史学は、古文書を隈なく調べ「正解がない」地道な学問で、成果の見えにくさはやはりあるのだろう。

2022年9月20日火曜日

街道を撮りにゆく 彼岸花(彩の国・元荒川)

         豪雨の中での撮影


9月18日台風14号の影響により、途中から滝のような豪雨の中での撮影となりました。
衣類・長靴はびしょ濡れで、カメラも被害甚大です。








2022年9月1日木曜日

読書 白洲次郎 占領を背負った男(上・下)

著者:北康利
出版:講談社文庫  

白洲次郎の名前は、これまで聞いてはいたが、この本を読むまでは、詳細は知らなかった。むしろ妻の白洲正子の方が有名かも知れない。
「名建築で昼食を」というTV番組があり、その中で旧鶴川村(現町田市)の茅葺農家を改造した「旧白洲邸(武相荘:ぶあいそう)」が取り上げられた。そこを訪れた時に、偶然この本を買ったのがきっかけである。

白洲次郎は、政治家でも、官僚でもないのに吉田茂の懐刀として、終戦直後の混乱期にGHQとの交渉窓口となり、「従順ならざる唯一の日本人」として本国に打電されるなどのエピソードには事欠かない。
またサライ等の雑誌で特集され、NHKのドラマで何度も放映される等、筋を通した生き方や英国流のダンディリズム(ケンブリッジに9年間留学)と言った魅力で、それなりに人気があるようだ。(もっとも吉田茂と同じで、死後評価が上がったという意見もある)

本書は、白洲次郎の評伝として、「山本七平賞」を受賞しているだけあって、テンポよく読みやすく、生身の白洲を見ているようなリアル感がある。
もっとも白洲次郎に関する一次資料は、ほとんど現存しておらず、実像としての次郎は謎が多い人物であり、関連本だけでなく、生存者へのインタビューなども交えて、白洲に迫ろうとした著者の苦労が想像される。

本書は、白洲の幼少期から始まっているが、圧巻は、吉田茂に抜擢されて、敗戦後のGHQとの交渉窓口となったことである。この時に憲法改正問題があり、GHQ民生局の理想主義的な若手弁護士達が一週間で作り上げたと言われる現憲法の素案を巡ってのやりとりである。白洲は憲法学者でもないので、裏方というか側面援助しかできないのだが、民生局の陰湿な手口で煮え湯を飲まされている。外務省に保存されている「白洲手記」に「・・(略)・・『今にみていろ』ト云フ気持抑ヘ切レス。ヒソカニ涙ス」と記されているという。また「日本は戦争に負けたが、アメリカの奴隷になったわけではない」等の名セリフを残している。

その後、白洲は商工省を改組し貿易に重点をおいた通商産業省を設立したり、サンフランシスコ平和条約の全権団顧問、公社民営化(専売公社・九電力分割)などに関わったが、吉田退陣後は、政治とは縁を切り、実業界に戻った。

敗戦直後の暗い時代にこんな気骨のある男がいたというのは、一服の清涼剤である。


2022年8月18日木曜日

街道を撮りにゆく 夏の思い出・・・ひまわり

      突如としてひまわり畑が出現

隣町の埼玉県白岡市の柴山沼の近くに、突如ひまわり畑が出現しました。(もっともこれまで気づかなっただけなのかも知れませんが・・・)

以下、写真をご覧下さい。






風があり、長時間露光なので、ひまわりがブレてしまいました。


2022年8月11日木曜日

読書 「随筆集 柚子は九年で」 葉室麟

 著者の作家人生への転身の決意が伝わってきます


著者:葉室麟
出版:文春文庫

前に著者の最後の随筆集「読書の森で寝転んで」を読んで、昔読んだ著者の小説「乾山晩愁」「銀漢の賦」「蜩の記」「墨龍賦」等々を思い出しました。
映画の「散り椿」も西島秀俊と岡田准一の太刀裁きと散り椿の美しさ、黒木華も良く、見応えがありました。「墨龍賦」を読んだ後で、京都建仁寺の「雲龍図」を見に行ったこともあります。「恋しぐれ」での蕪村の老いらくの恋やそれを取り巻く人々がしっくりと描かれていた連作短編集も「葉室ワールド」の世界に浸れました。
藤沢周平の死後、物静かだが、凛とした感じの雰囲気を出せる小説家は他に誰がいるのだろう・・・
そのような回想をしていたら、著者の最初の随筆集を見つけました。

本著は、デビューしたての頃から、直木賞を受賞した前後の時期のものです。
タイトルの「柚子は九年で」について、「桃栗三年柿八年」に続けて「柚子は九年で花が咲く」という地方があるそうだ。
著者が50歳になったときに「自分の残り時間を考えた。十年、二十年あるだろうか。そう思った時から歴史時代小説を書き始めた」自分自身を柚子に譬えた。
「じっくりと時間をかけて、あきらめることなく努力を重ねれば、いつかきっと花は咲く」「勝てないかもしれないが、逃げるわけにはいかない。できるのは『あきらめない』ということだけだ」と自分に言い聞かせたという。人生の残りの時間に焦りがあったのだろうと思う。

直木賞選考会の結果を、都内のホテルで待っている間、胸の内で「この言葉」をつぶやいていた。そして「蜩の記」で見事に直木賞を受賞し「柚子の花」が開いた。

この本も、「読書の森で寝転んで」と同様、著者の人柄をしのばせるように、じっくりと心に響く随筆集でした。

2022年7月25日月曜日

読書 「作家が死ぬと時代が変わる」 粕谷一希

    戦後日本のジャーナリズムの流れが一気に分かる


著者:粕谷一希
出版:日本経済新聞社

著者は、中央公論編集長(1967~1978一時解任)であり、退職後は東京都の広報誌「東京人」や外務省の広報誌「外交フォーラム」の創刊・編集長を務めた。(2誌ともその後独立)
中央公論社では当時の嶋中社長に見いだされ、30代で編集長に抜擢されている。
編集方針は嶋中社長の意向に沿って、総合雑誌「世界」と同じような左寄りだった「中央公論」を右旋回させた。(左右に組みしない「中央」に戻した)

作家が死ぬと時代が変わる」というタイトルは、嶋中社長が著者に言った言葉を引用している。もっとも言葉通りに作家が死んで、時代が変わることなど有りえないが、オピニオンリーダー的な人が亡くなると、それに対してこれまで表面に出て来なかった人が、出てくるという意味と理解したい。
著者は、昭和45年に三島由紀夫が自衛隊に突入して割腹自殺した事件の翌日に、毎日新聞の一面全面を使って、司馬遼太郎が「三島由紀夫への献辞と批判」の文章を書いたことにより、「司馬が文士としての歴史解釈を超えて、現実の日本の問題に対する指導的な言論を述べるリーダーへの転機となった一文である」と述べて、本のタイトルの好事例としている。
私も三島事件の評価が混乱する中で、毎日新聞の編集長が思い切った決断をしたものだと思う。(余談:三島は事件の1ケ月前に「おれが荷風みたいな老人になることが想像できるか」と著者に漏らしている)

本文では「論壇」と「文壇」が入り乱れているので分離して、本題に戻ります。
【論壇】
戦後丸山真男が偶像視され、その門下の坂本義和や、清水幾太郎、加藤周一、久野収らが唱える「反体制・反米・非武装中立」が学界・野党だけでなくマスコミ全体の主流だった。60年安保後に、中央公論では、現実主義の高坂正堯(現実主義者の平和論1963)、永井陽之介(平和の代償1967)や山崎正和らを起用し、時代の流れに少し変化が現れ始める。その後60年代末の大学紛争で、全共闘に最も理解をしめしていた丸山真男が、大学が荒らされたときに「彼らはファシストより悪い」と批判し、全共闘から突き放された。一方の「反動的」とまで言われた林健太郎は団交で学生に連れ去られても、全く屈しないで信念を貫いた。この全共闘への対応で、丸山と林の評価が決定的に逆転し、丸山は東大を辞め「丸山神話」が崩壊した。これで丸山派全体が影響力を失った。一方急進派は、最後は連合赤軍まで行ってしまい、内ゲバのリンチで破綻してしまう。(林は後に東大総長となる)
著者は、高坂正堯、山崎正和、永井陽之介を世に送り出した時が、編集者として一番充実していたと述べている。

【文壇】
戦後、白樺派(志賀直哉・武者小路実篤等)は戦争協力で傷つき、戦争に非協力であった永井荷風と谷崎潤一郎の地位が不動のものとなった。著者は「言ってみれば、非常時に祖国を大事にしようという倫理的な人より美意識が大事な人たちが主流となった」と述べているが、戦犯リストに載った人が、必ずしも戦争を煽った人ばかりでもないので、そういう見方も、言い得て妙とも思う。
文学では、その後第一次戦後派の大岡昇平、野間宏、武田泰淳、堀田善衛らが登場する。もう一方で、無頼派と呼ばれる坂口安吾や太宰治らがいた。その中で三島由紀夫だけが、戦後に背をむけて、反動的な発言を続けていたという。
その後「第三の新人」として、吉行淳之介、遠藤周作、安岡章太郎、阿川弘之らが登場した。特に三島の重しが取れると、吉行(軽薄のすすめ)、遠藤(狐狸庵)、安岡(ぐうたら)は、軽みで勝負し始めたという。更に石原慎太郎や大江健三郎が彗星のごとく飛び出し、それに続いて、開高健、北杜夫、加賀乙彦、辻邦生、大岡信らが続いた。その中で著者が、真の前衛的と評価するのが安部公房。ただ安部公房は三島事件の後、筆を取らなくなっている。安部公房の後に出てくるのが丸谷才一。但し丸谷は前衛ではなく文化的保守主義者。
批評家としては、小林秀雄、福田恆存、江藤淳が代表的という。そして詩人・批評家・急進派として吉本隆明が、異彩を放っていた。
余談だが、共産党支持者の話は面白かった。松本清張の共産党支持はイメージし易いが、井上ひさしも山田洋次も支持者。井上は「表裏源内蛙合戦」山田は「寅さん」。こういうイメージはかつての共産党のイメージではなく、70年代以降生まれた現象だという。そういえばジブリの宮崎駿や高畑勲も同じかな???

ただ全体としては、論壇・文壇ともに梅棹忠夫と司馬遼太郎の二人の関西人が圧倒的な影響力を持っていたという。論壇では戦後、丸山真男が支配していたが、梅棹の「文明の生態史観(1957)」が出てからは、影響力が徐々に浸透し始めたという。この本の中で「日本はアジアの一部というより、ユーラシア大陸の東にある英国に似ている。中国・インド・ロシアは専制帝国が交代するだけ。近代化という観点から見れば、封建制が発達した国が近代国家になって現代社会をつくる」という仮説を1950年代に出して、その後の日本の経済成長と予言した。
余談ですが、私の親友(故人)が、大学の時に「文明の生態史観」を読んでもの凄く興奮していた記憶が鮮明にあります。私は読み損ねて、再購入しこれから読む予定です。
またダニエル・ベルが「脱工業化社会論」を書いたが、「脱」「ポスト」というだけで、それが何かとは言わなかったが、梅棹はそれを「情報」だと言い切った。
司馬については、冒頭で述べたので省略します。

非常に面白い本であったが、例えば自身が東大法学部出身とか、「高坂正堯、山崎正和、永井陽之介、塩野七生らを世に送り出したのは自分だ」と言うのが、至る処に出てきたりして著者の奢りのが感じられる。名前についても「敬称なし」「君」「さん」と別れており、過去の丸山真男や谷崎潤一郎らの敬称なしは分かるが、年下についていえば、高坂正堯は君付けだが、著者を批判した江藤淳は呼び捨て。高坂と同い年の山崎正和は、退職後サントリー財団で世話になっているので「山崎さん」など。また言わなくてもいいような裏話を、特に死者に鞭打つ感じのものもあり、いただけない。著者の品性が疑われる箇所もある。
今年の5月に93歳で亡くなった文藝春秋の名編集長とうたわれた田中健五は、「編集者は、よくよく考えないといけない。物書きには誰にも言えないこと、お金のことや異性関係を相談することだってある。それをいちいち外に漏らしていたら、信頼されない。黙して墓場まで持っていく」と編集者のモラルを説いていたという。

2022年7月22日金曜日

読書 「歴史なき時代に」 與那覇潤

SNS時代についていけない世代はどうすればよいのか???


著者:與那覇潤
出版:朝日新書

以前に読んだ、著者の「中国化する日本」が面白かったので、この本を手にしたのだが、どうもついていけない。
内容は、朝日新聞に連載したコラムを軸にして、それに対談4編に、著者へのインタビューから構成されているが、冒頭の「まえがき―さよなら、学者たち」で躓いた。

「まえがき」は、SNSで炎上した歴史学者の投稿内容をダイジェストしているのだが、名前を匿名にするのは良いが、部外者には内容がチンプンカンプンで理解しようがない。

具体的には、実証的な歴史研究者A(日本史・男性)が「網野義彦はただのサヨク」と投稿し、別の学者B(英文学・女性)が「Aのような冷笑系には、網野のロマンティシズムを読み解くことはできない」と反論、更にC(日本史・男性)が「Bこそ思い込みしか根拠がないのに、妄想で当てこすっているだけだ」と論評。その後Cが1年半以上前からBの知らない所で、Bの言動をたびたび誹謗中傷していることが判明し、過去の発言を入手したBが、Cを強く非難した。それがSNSで炎上し、CがBへ謝罪する事態となった。ここへ有象無象の者がバッシングやキャンペーンをやり始めた。
それに対して、著者が「Cへの不当なバッシング」を批判したところ、著者にも火の粉が飛び移り巻き込まれてしまったグチをクドクドと述べている。
(この事件はSNS上では、有名な事件だったらしい? 以下ネット情報です。Cとなっているのは中公新書の「応仁の乱」でベストセラーになった「呉座勇一」で、女性のBは英文学者の「北村紗衣。この事件がきっかけで呉座がミソジニストで、SNSでの不適切な発言を繰り返しているということでネット上で炎上したらしい。その影響で呉座はNHKの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の時代考証を降ろされ、国際日本文化研究センターを解雇され、それを不服とした呉座が裁判に訴えて係争中(2021年末~2022年初)だそうだ)

次に、SNSの炎上の話から、コロナでの「自分が罹らないためなら、他のやつらは黙って自粛しろ」の風潮への批判へと展開してゆき、ポストコロナは共感を作り直すことから始めなくてはならないと纏めている。
・・・この著者は、読者に分かりやすく理解させようとしているのか疑問に思う。

本書のメインであるコラムの内容についても、短文であるため、全体感が把握できないのでその分理解しにくい。著者の怒りが常に感じられるので、読んでいて疲れる。
対談については、まともな内容であったので、辛うじて救われたが、全体に著者の熱量が多すぎて、お薦めできる本ではないと思う。

ただいろんな書評をみると、★が4~5が圧倒的に多くついており、若者には理解できて共感が湧いているようなので、単にオジンがついていけないだけなのか? 

2022年7月19日火曜日

読書 「舞台をまわす、舞台がまわる」山崎正和オーラルヒストリー

    山崎正和が劇的な人生を語り尽くす


著者:(御厨貴・阿川尚之・苅部直・牧原出)編
出版:中央公論新社

聞き手は、御厨貴東大名誉教授、阿川尚之慶大名誉教授、苅部直東大教授、牧原出東大教授の4名の政治学者。
劇作家・評論家でかつ大学教授の山崎正和に対して、何故政治学者が聞き手なのか。
山崎には、もう一つ別の顔がある。佐藤内閣、福田内閣、大平内閣での内閣官房を通じての政府のブレーンでもあり、これらの内閣での政策決定に少なからず関わっていたという事情がある。
ヒアリングは、1年半に渡り、1回2時間の計12回行われた。(延べ24時間)
その結果、A5判、2段組み、360ページ強の大冊として刊行された。かなり重く、ベッドで読んでいるとやたらと肩が凝るので、途中からベッドで読むのをやめ、書見台を購入した次第です。

山崎は1934年(昭和9年)京都で生まれ、5歳の時に満州に移住。満州で父親を病気で亡くしその後終戦を迎え、1948年(昭和23年)に京都に引き揚げてきた。終戦直前にソ連軍が満州に攻め込んできたが、彼らの多くは囚人であり、まさに血に飢えた狼のようだったという。その体験から、「私は無政府状態が如何に恐ろしいかを知っています。どんな悪い政府でも、無政府状態よりましだという信念の持ち主です」と述べている。

《戯曲・世阿彌》

山崎は、大学院生の時に書いた「世阿彌」で、岸田戯曲賞を受賞し、学者か芝居書きか迷っている時に、フルブライトから声がかかり、イェール大学の研究員(後に客員教授)として渡米している。
ここで面白いのは「世阿彌」で世に出た山崎だが、本人曰く「舞台の能というものに親しみを持てなかった。率直にいって眠いですね・・・ただ世阿弥の能楽理論は、日本人にしては珍しく非常に論理的に書かれた演技論です。同時代の西洋にもまったくなかった新しい演技論というか、演技の哲学に興味をそそられました」
能に興味のない人間が、世阿弥の戯曲を書き、それで人生が大きく周り始めたと言うのも皮肉なものだと思う。

《学園紛争》

その後帰国して、関西大学の助教授の時に学園紛争に巻き込まれる。学生闘争の最前線へ放り出され、学生に殴られ眼球にガラスが刺さるような経験もしている。その最中に当時の首相秘書官の楠田實氏から、首相官邸に呼び出されて佐藤首相に会い、その後学園紛争の対策チームに組み入れられた。この時のメンバーは、京極純一と衛藤瀋吉。別のチームでは、若泉敬や高坂正堯らが、沖縄返還交渉のためのチームを編成していた。
当時の学園紛争は特殊な現象で、人を殴る、物を盗む、建物を占拠するという一般社会では犯罪とされる行為が、犯罪とならない。大学の中は無法地帯で嵐のように揉めていたが、一般社会の人たちは何も痛痒を感じていない。知的分野での大混乱がありながら、経済だけは素知らぬ顔をして伸びていた。そこでこの対策チームは、社会全体にショックを与えないと、大学だけでいくらやっても収まらない。これは重大な社会問題だということを、社会全体に認識してもらう必要があるということになって「東大の入学試験中止」という提案を行なった。タイミングは、東大安田講堂事件直後に、佐藤首相に安田講堂に行ってもらい痛恨の極みという表情を見せ、その顔写真が新聞に掲載された後「東大入試中止」と言わせるという演出まで行った。劇作家の面目躍如ということか。
これでやっと社会全体が動き、学園紛争が終息に向かったと本人は述べている。
学生共闘はその後、セクト間の闘争に移行し、あさま山荘事件や凄惨なリンチ事件が発生したのは、我々が知るところである。

《新現実派》

山崎は、佐藤内閣、福田内閣、大平内閣で政府のブレーンとして参加しているが、田中内閣と中曽根内閣には参加していない。この頃のメンバーとしては、梅棹忠夫、高坂正堯、永井陽之介、公文俊平、中嶋嶺雄、佐藤誠三郎らがいた。左派やマスコミからは高坂正堯の『現実主義者の平和論』をもじって「新現実派」と呼ばれ、左派中心の大学内では孤立していたそうだ。

確かに当時の私の感覚としても「朝日岩波文化人」と称される進歩的文化人?以外は、知識人とはみなされないような雰囲気があった。上記の永井陽之介は、アメリカ留学中にキューバ危機を現地で体験し、国際政治の厳しさを目の当たりにして日本の平和主義に危機感を抱き、日本の「非武装中立」という理想的平和主義を批判した。平和主義をうたう丸山眞男門下でありながらそのような論文を発表するのに躊躇がなかったかといえば嘘になると述べている。その結果東大から追放されている。-「現代と戦略」および「平和の代償」より
 

《近代的自我について》

山崎は「鴎外・闘う家長」で読売文学賞を受賞している。その評伝を書き始めて、気づいたことは、鴎外には自我がないということであるという。しかも「ない」ということを本人がはっきりと自覚している。そしてなぜ「ない」のかわからないと悩んでいる。
近代日本文学を研究していれば、このテーマに必ず突き当たる。漱石はこの問題を正面に押し出して悩んだ。
日本のインテリが自我に目覚める最大のきっかけは、恋愛問題ないし結婚問題で、そこで親と対立する。縁談を断って東京に飛び出してくるというのが、日本の近代的自我のパターンだという。親に反抗するだけで、逆に中身については、主張すべきものは何もない。それがない中で、自我を主張しようとすると、どういうことになるか。全部「拒否の自我」になる。しかし、鴎外については親の抑圧を受けていないので「拒否の自我」もない。観念としての近代的自我は、外国の本を読んでいるから頭に入ってくる。その落差に苦しんでいたという。鴎外は自我がないことの苦しみと不安を、生涯のテーマにして書いたという。

その後、大阪大学の教授になり、山崎の後半生は、「大阪・関西復興運動」や「サントリー財団」の設立に尽力する。

 この本を読んでいて、母子家庭で、苦学しながらも劇作家という経済的に困難な世界から、筆一本で人生を切り開いてきた山崎正和という人は、本当に頭の良い、凄い人だと人だと思う。
これだけでは、竜頭蛇尾で書き足らないのだが、ブログとしては書きすぎて紙面も足りないので、中途半端ですが終わりにします。

2022年7月12日火曜日

読書 「読書の森で寝転んで」 葉室麟

        著者最後のエッセイ


著者:葉室麟
出版:文春文庫

藤沢周平が亡くなって、好きな時代小説家(歴史小説とは別)がいなくなり、寂しい思いを持った時に、尾形光琳と尾形乾山の兄弟を描いた「乾山晩愁」(2005年歴史文学賞受賞)を引っ提げて彗星のごとく登場した葉室麟。その後「蜩ノ記」で直木賞を受賞。
2017年に急逝した葉室麟氏の最後のエッセイ集が、今年6月に文庫化されたので、早速読んでみた。
地方紙の記者をしていたので、作家デビューは50歳を過ぎてからで、作家生活が短かったのが惜しまれる。
エッセイでも、小説同様に凛とした中にも、ほのぼのとした温かさが滲み出てくるので、読んでいてホッとさせてくれる。こういう文章を書ける作家は稀有な存在になってしまった。

第1章で、本人の好きな作家は、やはり司馬遼太郎と藤沢周平だそうだ。当初は司馬と同じような歴史小説を書きたかったが、全然受けなかった(笑)と第4章の対談で述べている。
司馬作品にはいずれも人を酔わせ、歴史の風がほほをなでる感覚があるという。そして司馬は何故小説を書くことをやめたのかを、最後の小説である「韃靼疾風録」で考える。
沢木耕太郎の「テロルの決算」では、新聞記者になりたての若い頃を思い出し、そして藤沢周平の「三屋清左衛門残日録」で、記者を退職した自分の年齢と併せて物思いにふける。

第2章の歴史随筆では、九州出身者らしく西郷隆盛とはどんな人物だったかを考え、藤原不比等を「女帝の世紀」の演出者であり、「法治国家」の礎を築いた古代最大の政治家と評している。

第3章の小説講座での対談で「小説は虚構だけど、自分の中にある本当のことしか書けない。書くことは、心の歌をうたうことです」と言っているのは、この作家らしい感じがする。

第4章は、絶筆(未完)となった小説の断片から成り立っている。
「芦刈」という短編は絶品だった。単行本に出来なかったのが残念だ。
そして著者は最後に、司馬遼太郎の「坂の上の雲」にならって、自分流の「坂の上の雲」の構想を練っていた。日露戦争は明治維新・ロシア革命・中国革命の三つの革命のはざまにあり、それを軸にロマノフ王朝が滅びゆく物語としての三都物語を書きたかったそうだ。この小説が構想だけで終わってしまったのが残念でならない。