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2022年7月25日月曜日

読書 「作家が死ぬと時代が変わる」 粕谷一希

    戦後日本のジャーナリズムの流れが一気に分かる


著者:粕谷一希
出版:日本経済新聞社

著者は、中央公論編集長(1967~1978一時解任)であり、退職後は東京都の広報誌「東京人」や外務省の広報誌「外交フォーラム」の創刊・編集長を務めた。(2誌ともその後独立)
中央公論社では当時の嶋中社長に見いだされ、30代で編集長に抜擢されている。
編集方針は嶋中社長の意向に沿って、総合雑誌「世界」と同じような左寄りだった「中央公論」を右旋回させた。(左右に組みしない「中央」に戻した)

作家が死ぬと時代が変わる」というタイトルは、嶋中社長が著者に言った言葉を引用している。もっとも言葉通りに作家が死んで、時代が変わることなど有りえないが、オピニオンリーダー的な人が亡くなると、それに対してこれまで表面に出て来なかった人が、出てくるという意味と理解したい。
著者は、昭和45年に三島由紀夫が自衛隊に突入して割腹自殺した事件の翌日に、毎日新聞の一面全面を使って、司馬遼太郎が「三島由紀夫への献辞と批判」の文章を書いたことにより、「司馬が文士としての歴史解釈を超えて、現実の日本の問題に対する指導的な言論を述べるリーダーへの転機となった一文である」と述べて、本のタイトルの好事例としている。
私も三島事件の評価が混乱する中で、毎日新聞の編集長が思い切った決断をしたものだと思う。(余談:三島は事件の1ケ月前に「おれが荷風みたいな老人になることが想像できるか」と著者に漏らしている)

本文では「論壇」と「文壇」が入り乱れているので分離して、本題に戻ります。
【論壇】
戦後丸山真男が偶像視され、その門下の坂本義和や、清水幾太郎、加藤周一、久野収らが唱える「反体制・反米・非武装中立」が学界・野党だけでなくマスコミ全体の主流だった。60年安保後に、中央公論では、現実主義の高坂正堯(現実主義者の平和論1963)、永井陽之介(平和の代償1967)や山崎正和らを起用し、時代の流れに少し変化が現れ始める。その後60年代末の大学紛争で、全共闘に最も理解をしめしていた丸山真男が、大学が荒らされたときに「彼らはファシストより悪い」と批判し、全共闘から突き放された。一方の「反動的」とまで言われた林健太郎は団交で学生に連れ去られても、全く屈しないで信念を貫いた。この全共闘への対応で、丸山と林の評価が決定的に逆転し、丸山は東大を辞め「丸山神話」が崩壊した。これで丸山派全体が影響力を失った。一方急進派は、最後は連合赤軍まで行ってしまい、内ゲバのリンチで破綻してしまう。(林は後に東大総長となる)
著者は、高坂正堯、山崎正和、永井陽之介を世に送り出した時が、編集者として一番充実していたと述べている。

【文壇】
戦後、白樺派(志賀直哉・武者小路実篤等)は戦争協力で傷つき、戦争に非協力であった永井荷風と谷崎潤一郎の地位が不動のものとなった。著者は「言ってみれば、非常時に祖国を大事にしようという倫理的な人より美意識が大事な人たちが主流となった」と述べているが、戦犯リストに載った人が、必ずしも戦争を煽った人ばかりでもないので、そういう見方も、言い得て妙とも思う。
文学では、その後第一次戦後派の大岡昇平、野間宏、武田泰淳、堀田善衛らが登場する。もう一方で、無頼派と呼ばれる坂口安吾や太宰治らがいた。その中で三島由紀夫だけが、戦後に背をむけて、反動的な発言を続けていたという。
その後「第三の新人」として、吉行淳之介、遠藤周作、安岡章太郎、阿川弘之らが登場した。特に三島の重しが取れると、吉行(軽薄のすすめ)、遠藤(狐狸庵)、安岡(ぐうたら)は、軽みで勝負し始めたという。更に石原慎太郎や大江健三郎が彗星のごとく飛び出し、それに続いて、開高健、北杜夫、加賀乙彦、辻邦生、大岡信らが続いた。その中で著者が、真の前衛的と評価するのが安部公房。ただ安部公房は三島事件の後、筆を取らなくなっている。安部公房の後に出てくるのが丸谷才一。但し丸谷は前衛ではなく文化的保守主義者。
批評家としては、小林秀雄、福田恆存、江藤淳が代表的という。そして詩人・批評家・急進派として吉本隆明が、異彩を放っていた。
余談だが、共産党支持者の話は面白かった。松本清張の共産党支持はイメージし易いが、井上ひさしも山田洋次も支持者。井上は「表裏源内蛙合戦」山田は「寅さん」。こういうイメージはかつての共産党のイメージではなく、70年代以降生まれた現象だという。そういえばジブリの宮崎駿や高畑勲も同じかな???

ただ全体としては、論壇・文壇ともに梅棹忠夫と司馬遼太郎の二人の関西人が圧倒的な影響力を持っていたという。論壇では戦後、丸山真男が支配していたが、梅棹の「文明の生態史観(1957)」が出てからは、影響力が徐々に浸透し始めたという。この本の中で「日本はアジアの一部というより、ユーラシア大陸の東にある英国に似ている。中国・インド・ロシアは専制帝国が交代するだけ。近代化という観点から見れば、封建制が発達した国が近代国家になって現代社会をつくる」という仮説を1950年代に出して、その後の日本の経済成長と予言した。
余談ですが、私の親友(故人)が、大学の時に「文明の生態史観」を読んでもの凄く興奮していた記憶が鮮明にあります。私は読み損ねて、再購入しこれから読む予定です。
またダニエル・ベルが「脱工業化社会論」を書いたが、「脱」「ポスト」というだけで、それが何かとは言わなかったが、梅棹はそれを「情報」だと言い切った。
司馬については、冒頭で述べたので省略します。

非常に面白い本であったが、例えば自身が東大法学部出身とか、「高坂正堯、山崎正和、永井陽之介、塩野七生らを世に送り出したのは自分だ」と言うのが、至る処に出てきたりして著者の奢りのが感じられる。名前についても「敬称なし」「君」「さん」と別れており、過去の丸山真男や谷崎潤一郎らの敬称なしは分かるが、年下についていえば、高坂正堯は君付けだが、著者を批判した江藤淳は呼び捨て。高坂と同い年の山崎正和は、退職後サントリー財団で世話になっているので「山崎さん」など。また言わなくてもいいような裏話を、特に死者に鞭打つ感じのものもあり、いただけない。著者の品性が疑われる箇所もある。
今年の5月に93歳で亡くなった文藝春秋の名編集長とうたわれた田中健五は、「編集者は、よくよく考えないといけない。物書きには誰にも言えないこと、お金のことや異性関係を相談することだってある。それをいちいち外に漏らしていたら、信頼されない。黙して墓場まで持っていく」と編集者のモラルを説いていたという。

2022年7月22日金曜日

読書 「歴史なき時代に」 與那覇潤

SNS時代についていけない世代はどうすればよいのか???


著者:與那覇潤
出版:朝日新書

以前に読んだ、著者の「中国化する日本」が面白かったので、この本を手にしたのだが、どうもついていけない。
内容は、朝日新聞に連載したコラムを軸にして、それに対談4編に、著者へのインタビューから構成されているが、冒頭の「まえがき―さよなら、学者たち」で躓いた。

「まえがき」は、SNSで炎上した歴史学者の投稿内容をダイジェストしているのだが、名前を匿名にするのは良いが、部外者には内容がチンプンカンプンで理解しようがない。

具体的には、実証的な歴史研究者A(日本史・男性)が「網野義彦はただのサヨク」と投稿し、別の学者B(英文学・女性)が「Aのような冷笑系には、網野のロマンティシズムを読み解くことはできない」と反論、更にC(日本史・男性)が「Bこそ思い込みしか根拠がないのに、妄想で当てこすっているだけだ」と論評。その後Cが1年半以上前からBの知らない所で、Bの言動をたびたび誹謗中傷していることが判明し、過去の発言を入手したBが、Cを強く非難した。それがSNSで炎上し、CがBへ謝罪する事態となった。ここへ有象無象の者がバッシングやキャンペーンをやり始めた。
それに対して、著者が「Cへの不当なバッシング」を批判したところ、著者にも火の粉が飛び移り巻き込まれてしまったグチをクドクドと述べている。
(この事件はSNS上では、有名な事件だったらしい? 以下ネット情報です。Cとなっているのは中公新書の「応仁の乱」でベストセラーになった「呉座勇一」で、女性のBは英文学者の「北村紗衣。この事件がきっかけで呉座がミソジニストで、SNSでの不適切な発言を繰り返しているということでネット上で炎上したらしい。その影響で呉座はNHKの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の時代考証を降ろされ、国際日本文化研究センターを解雇され、それを不服とした呉座が裁判に訴えて係争中(2021年末~2022年初)だそうだ)

次に、SNSの炎上の話から、コロナでの「自分が罹らないためなら、他のやつらは黙って自粛しろ」の風潮への批判へと展開してゆき、ポストコロナは共感を作り直すことから始めなくてはならないと纏めている。
・・・この著者は、読者に分かりやすく理解させようとしているのか疑問に思う。

本書のメインであるコラムの内容についても、短文であるため、全体感が把握できないのでその分理解しにくい。著者の怒りが常に感じられるので、読んでいて疲れる。
対談については、まともな内容であったので、辛うじて救われたが、全体に著者の熱量が多すぎて、お薦めできる本ではないと思う。

ただいろんな書評をみると、★が4~5が圧倒的に多くついており、若者には理解できて共感が湧いているようなので、単にオジンがついていけないだけなのか? 

2022年7月19日火曜日

読書 「舞台をまわす、舞台がまわる」山崎正和オーラルヒストリー

    山崎正和が劇的な人生を語り尽くす


著者:(御厨貴・阿川尚之・苅部直・牧原出)編
出版:中央公論新社

聞き手は、御厨貴東大名誉教授、阿川尚之慶大名誉教授、苅部直東大教授、牧原出東大教授の4名の政治学者。
劇作家・評論家でかつ大学教授の山崎正和に対して、何故政治学者が聞き手なのか。
山崎には、もう一つ別の顔がある。佐藤内閣、福田内閣、大平内閣での内閣官房を通じての政府のブレーンでもあり、これらの内閣での政策決定に少なからず関わっていたという事情がある。
ヒアリングは、1年半に渡り、1回2時間の計12回行われた。(延べ24時間)
その結果、A5判、2段組み、360ページ強の大冊として刊行された。かなり重く、ベッドで読んでいるとやたらと肩が凝るので、途中からベッドで読むのをやめ、書見台を購入した次第です。

山崎は1934年(昭和9年)京都で生まれ、5歳の時に満州に移住。満州で父親を病気で亡くしその後終戦を迎え、1948年(昭和23年)に京都に引き揚げてきた。終戦直前にソ連軍が満州に攻め込んできたが、彼らの多くは囚人であり、まさに血に飢えた狼のようだったという。その体験から、「私は無政府状態が如何に恐ろしいかを知っています。どんな悪い政府でも、無政府状態よりましだという信念の持ち主です」と述べている。

《戯曲・世阿彌》

山崎は、大学院生の時に書いた「世阿彌」で、岸田戯曲賞を受賞し、学者か芝居書きか迷っている時に、フルブライトから声がかかり、イェール大学の研究員(後に客員教授)として渡米している。
ここで面白いのは「世阿彌」で世に出た山崎だが、本人曰く「舞台の能というものに親しみを持てなかった。率直にいって眠いですね・・・ただ世阿弥の能楽理論は、日本人にしては珍しく非常に論理的に書かれた演技論です。同時代の西洋にもまったくなかった新しい演技論というか、演技の哲学に興味をそそられました」
能に興味のない人間が、世阿弥の戯曲を書き、それで人生が大きく周り始めたと言うのも皮肉なものだと思う。

《学園紛争》

その後帰国して、関西大学の助教授の時に学園紛争に巻き込まれる。学生闘争の最前線へ放り出され、学生に殴られ眼球にガラスが刺さるような経験もしている。その最中に当時の首相秘書官の楠田實氏から、首相官邸に呼び出されて佐藤首相に会い、その後学園紛争の対策チームに組み入れられた。この時のメンバーは、京極純一と衛藤瀋吉。別のチームでは、若泉敬や高坂正堯らが、沖縄返還交渉のためのチームを編成していた。
当時の学園紛争は特殊な現象で、人を殴る、物を盗む、建物を占拠するという一般社会では犯罪とされる行為が、犯罪とならない。大学の中は無法地帯で嵐のように揉めていたが、一般社会の人たちは何も痛痒を感じていない。知的分野での大混乱がありながら、経済だけは素知らぬ顔をして伸びていた。そこでこの対策チームは、社会全体にショックを与えないと、大学だけでいくらやっても収まらない。これは重大な社会問題だということを、社会全体に認識してもらう必要があるということになって「東大の入学試験中止」という提案を行なった。タイミングは、東大安田講堂事件直後に、佐藤首相に安田講堂に行ってもらい痛恨の極みという表情を見せ、その顔写真が新聞に掲載された後「東大入試中止」と言わせるという演出まで行った。劇作家の面目躍如ということか。
これでやっと社会全体が動き、学園紛争が終息に向かったと本人は述べている。
学生共闘はその後、セクト間の闘争に移行し、あさま山荘事件や凄惨なリンチ事件が発生したのは、我々が知るところである。

《新現実派》

山崎は、佐藤内閣、福田内閣、大平内閣で政府のブレーンとして参加しているが、田中内閣と中曽根内閣には参加していない。この頃のメンバーとしては、梅棹忠夫、高坂正堯、永井陽之介、公文俊平、中嶋嶺雄、佐藤誠三郎らがいた。左派やマスコミからは高坂正堯の『現実主義者の平和論』をもじって「新現実派」と呼ばれ、左派中心の大学内では孤立していたそうだ。

確かに当時の私の感覚としても「朝日岩波文化人」と称される進歩的文化人?以外は、知識人とはみなされないような雰囲気があった。上記の永井陽之介は、アメリカ留学中にキューバ危機を現地で体験し、国際政治の厳しさを目の当たりにして日本の平和主義に危機感を抱き、日本の「非武装中立」という理想的平和主義を批判した。平和主義をうたう丸山眞男門下でありながらそのような論文を発表するのに躊躇がなかったかといえば嘘になると述べている。その結果東大から追放されている。-「現代と戦略」および「平和の代償」より
 

《近代的自我について》

山崎は「鴎外・闘う家長」で読売文学賞を受賞している。その評伝を書き始めて、気づいたことは、鴎外には自我がないということであるという。しかも「ない」ということを本人がはっきりと自覚している。そしてなぜ「ない」のかわからないと悩んでいる。
近代日本文学を研究していれば、このテーマに必ず突き当たる。漱石はこの問題を正面に押し出して悩んだ。
日本のインテリが自我に目覚める最大のきっかけは、恋愛問題ないし結婚問題で、そこで親と対立する。縁談を断って東京に飛び出してくるというのが、日本の近代的自我のパターンだという。親に反抗するだけで、逆に中身については、主張すべきものは何もない。それがない中で、自我を主張しようとすると、どういうことになるか。全部「拒否の自我」になる。しかし、鴎外については親の抑圧を受けていないので「拒否の自我」もない。観念としての近代的自我は、外国の本を読んでいるから頭に入ってくる。その落差に苦しんでいたという。鴎外は自我がないことの苦しみと不安を、生涯のテーマにして書いたという。

その後、大阪大学の教授になり、山崎の後半生は、「大阪・関西復興運動」や「サントリー財団」の設立に尽力する。

 この本を読んでいて、母子家庭で、苦学しながらも劇作家という経済的に困難な世界から、筆一本で人生を切り開いてきた山崎正和という人は、本当に頭の良い、凄い人だと人だと思う。
これだけでは、竜頭蛇尾で書き足らないのだが、ブログとしては書きすぎて紙面も足りないので、中途半端ですが終わりにします。

2022年7月12日火曜日

読書 「読書の森で寝転んで」 葉室麟

        著者最後のエッセイ


著者:葉室麟
出版:文春文庫

藤沢周平が亡くなって、好きな時代小説家(歴史小説とは別)がいなくなり、寂しい思いを持った時に、尾形光琳と尾形乾山の兄弟を描いた「乾山晩愁」(2005年歴史文学賞受賞)を引っ提げて彗星のごとく登場した葉室麟。その後「蜩ノ記」で直木賞を受賞。
2017年に急逝した葉室麟氏の最後のエッセイ集が、今年6月に文庫化されたので、早速読んでみた。
地方紙の記者をしていたので、作家デビューは50歳を過ぎてからで、作家生活が短かったのが惜しまれる。
エッセイでも、小説同様に凛とした中にも、ほのぼのとした温かさが滲み出てくるので、読んでいてホッとさせてくれる。こういう文章を書ける作家は稀有な存在になってしまった。

第1章で、本人の好きな作家は、やはり司馬遼太郎と藤沢周平だそうだ。当初は司馬と同じような歴史小説を書きたかったが、全然受けなかった(笑)と第4章の対談で述べている。
司馬作品にはいずれも人を酔わせ、歴史の風がほほをなでる感覚があるという。そして司馬は何故小説を書くことをやめたのかを、最後の小説である「韃靼疾風録」で考える。
沢木耕太郎の「テロルの決算」では、新聞記者になりたての若い頃を思い出し、そして藤沢周平の「三屋清左衛門残日録」で、記者を退職した自分の年齢と併せて物思いにふける。

第2章の歴史随筆では、九州出身者らしく西郷隆盛とはどんな人物だったかを考え、藤原不比等を「女帝の世紀」の演出者であり、「法治国家」の礎を築いた古代最大の政治家と評している。

第3章の小説講座での対談で「小説は虚構だけど、自分の中にある本当のことしか書けない。書くことは、心の歌をうたうことです」と言っているのは、この作家らしい感じがする。

第4章は、絶筆(未完)となった小説の断片から成り立っている。
「芦刈」という短編は絶品だった。単行本に出来なかったのが残念だ。
そして著者は最後に、司馬遼太郎の「坂の上の雲」にならって、自分流の「坂の上の雲」の構想を練っていた。日露戦争は明治維新・ロシア革命・中国革命の三つの革命のはざまにあり、それを軸にロマノフ王朝が滅びゆく物語としての三都物語を書きたかったそうだ。この小説が構想だけで終わってしまったのが残念でならない。