フォロワー

2022年4月14日木曜日

読書 「あなたに語る日本文学史」 大岡信

      あなたに語る日本文学史



著者:大岡信
出版:新書館

著者は30年近く新聞紙上に連載された「折々のうた」で知られる詩人・評論家である。
本書は、ハードカバーで600ページ近くあり、そのボリュームに圧倒され長く積読状態が続いていましたが、著者が数年前に亡くなり、読む気力が湧いてきたというか、読書圧力?がかかってきて、やっと本を開いた次第です。

内容は語り下ろしになっており、非常に読みやすく、かつ文学の歴史の知識の羅列ではなく「何が面白いか」に重点が置かれているので、読みだすと一気に読めます。こんなに面白いのならもっと早く読めば良かったと思った次第です。

これまで日本文学史というと、源氏物語、枕草子、徒然草、方丈記、平家物語等々の読み物が中心というイメージがありましたが、本書は詩歌を基軸に文学史を捉えています
著者が詩人なので、そういう視点かなと思いましたが、そうではなくやはり日本文学は詩歌が基軸になっているのが、この本を読むとよく理解できます。

日本文学は、貴族主義的な文学を中心に考えて来た関係で、どうしてももう一方の散文精神、コミカルで場合によっては悲劇的で、総じていえばドラマティックな要素を持つものを、全部二流のものとしてきた。なぜなら歌論がすべての文学形式の中心にずっと居座っていた。歌論で絶対的な権威を持っていたのは、紀貫之を始めとする各時代の指導的な歌人たちが繰り返して言っていた、「花実兼備」「心詞一体」、つまり花と実が一体化していないと最高の文学ではないという考え方が支配していたからで、散文は実の方に傾くので、どうしても下になってしまう。
日本文学は外国の文学と比べて、散文より和歌の権威が圧倒的だったのでそのような傾向になったが、その和歌の権威が圧倒的だったのは、勅撰和歌集が五百年もの間最高権威だったことによる。勅撰和歌集は天皇の命により編纂されることなので、天皇制というものが日本の文学のひとつのスタイルを作ったといえると著者はいう。

一方、連歌、俳諧、茶道、華道というものは上記の「花実兼備」の心をいちばんにしていたので、この流れの中にある。ここから外れるのは文学でいえば散文だけになる。
そして我々の批評眼も鑑賞眼も全部「花実兼備」を理想としている。だから、実ばかりを重んじるようなもの、あるいは真実において優れているものは、どちらかといえば二流だと思われる傾向があった。「後撰集」「後拾遺集」「大和物語」やありとあらゆる歌謡、お伽草子など全部二流になってしまう。過去に二流といわれてきたものは理想主義というより、現実主義なものが多い。現実主義だから、ゴシップなどを重んじる、つまり同時代に起きたことを戯画化する。それは下品と思われたに違いないが、面白いものが多いと言う。

また小説の成り立ちについても興味が湧いた。
窪田空穂(1877-1967)が「伊勢物語」について、最初にこれは歌物語であり、小説だと主張したことを紹介している。それ以前は、同書は歌のお手本で、小説とは思われてなかった。
歌集の和歌には詞書(ことばがき)というものがあります。詞書とは、和歌(や俳句)の前書きとして、その作品の動機・主題・成立事情などを記したもので、これを読めば和歌の内容の理解がより深くなるように書かれたものです。
この詞書が当初は「誰々に」「何々に」としか書かれていなかったが、だんだん増えて五行、十行となる。そしてこれがどんどん膨らんでいく。詞書と歌を併せて読むと、じつに面白い物語の世界の原型ができている。
そういう意味で、「伊勢物語」や「大和物語」では、歌の詞書がどんどん膨らんでいって、物語に移っていくのを示している原型的な世界がある。そしてやがて歌が取れて「源氏物語」のような物語になっていく。
このプロセスを書いている箇所は読んでいて、非常に面白い。

蛇足:<伊勢物語に関連して> 平安時代の最大の歌人のひとりである「在原業平」は、漢文で書かれた正史のなかで「ほぼ才学なし」と書かれている。これは菅原道真が書いたと言われている。この才学というのはこの場合、漢学をさす。和歌も上手く気立ても良く美男で、女性の憧れの男だったが、役所の仕事で使う漢文が出来なかったために菅原道真からは、白い目で見られて出世も遅れたのだろうか。逆の見方をすれが、業平の場合は、出世欲がなく、和歌と恋によって世の中を謳歌したのかも知れない。

他に「政治の敗者はアンソロジーに生きる」「女たちの中世」「写生は近代文学のかなめ」等時間が経つのを忘れるほど面白い読み物でした。

0 件のコメント:

コメントを投稿