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2026年8月2日日曜日

映画 開戦前夜(石井裕也 監督・脚本・編集)

映画 「開戦前夜」 石井裕也 (監督・脚本・編集)
(原作:「昭和16年の夏の敗戦」著者:猪瀬直樹

















原作はかなり以前に読んだので、細かい内容は忘れましたが、それでもかなりの衝撃を受けた本でしたので、映画も初日に見てきました。
深刻なテーマを扱った映画で、2時間以上の上映時間ですが、緊張感あふれる内容で、最後まで一気に見せてくれます。
最後の空襲で焼け野原になった場面を見ながら、何でこんな負けるのが分かっている戦争に突入してしまったのかと、自然に涙が湧いてきました。
総力戦研究所が「日本必敗」という結論に到達しながら、その警告が国家を止める力を持たなかったことこそ、この映画が訴える最大の悲劇であり、同時に現代にも通じる重い教訓ではないでしょうか。

〈あらすじ〉・・・ネタバレ
1941(昭和16)年4月、真珠湾攻撃の8カ月前。官僚・軍・民間から選りすぐられた若きエリートたちが、内閣総理大臣の直轄機関「総力戦研究所」に招集された。彼らに与えられた任務は“模擬内閣”を結成して日米が開戦した場合の戦局をシミュレーションし、その結果を近衛内閣に報告すること。宇治田(池松 壮亮)を始めとするメンバーたちは、国家機密レベルのデータを駆使した激烈な議論の末、「日本必敗」という衝撃的な結論にたどり着く。しかも彼等は当時欧州を席捲していたドイツの敗北まで予想していた。
彼らの「敗北という見通しから戦争回避すべし」という報告に反して、既にアメリカからは日本への石油禁輸処置が打ち出され、時代の空気は彼らの意図とは反対の方向へ流れていく。そうした中で、近衛が内閣を投げ出し、東條英機に組閣の命が下る。

この場面は、以前読んだ「木戸幸一日記」に書いてあることが忠実に再現されている。天皇や木戸が東條に組閣を命じた意図は、陸軍を抑えるためであるが、東條もその意向に沿って動こうとする・・・そうした意図に反して、マスコミは戦争を煽るような形で世論を扇動し、陸軍もそのような動きと歩調を合わせ、東條でさえ身の危険を感じるほどになる。得体の知れない戦争への熱気が日本全体を覆い、時代は時間と共に戦争に向かっていく。
アメリカから石油の全面禁輸処置に続いて、11月にはハル・ノートを突きつきられ、東條も開戦へ舵を切るが、結果は「総力戦研究所」が机上で出した結果とほぼ同じになる・・・原爆の投下以外は・・・

〈余談〉
最近、高坂正堯の遺作となった「世界史の中から考える」を読んでいると、太平洋戦争に関して「真珠湾の攻撃」「ハル・ノート再考」という章があった。アメリカ側からの考察である。

そこでの高坂の見立ては、ドイツが快進撃を進め、フランスが降伏し、イギリスも追い込まれていた欧州の戦争に、ルーズベルトは参戦したかった。ただ、建前としては「アメリカが攻撃されない限り、戦争はしない」と語っていた。つまり当時のアメリカは孤立主義、すなわち旧世界(欧州)の権力政治にアメリカは関与しないという建国後まもなく作られた原則だった。
当初、ルーズベルトはまずドイツを挑発しようとした。イギリスに駆逐艦五十隻を与え、それを輸送する際、アメリカ海軍が護送した。ドイツが潜水艦か他の方法で、その艦隊を攻撃しても当然だった。第一次世界大戦ではアメリカは中立を続けたが、アメリカ客船をドイツの潜水艦が撃沈したため、アメリカが参戦した前例があった。
今回は、ドイツはその挑発に乗らなかった。
その結果、ルーズベルトは「戦争裏口説」と呼ばれる政策を考えるようになった。すなわち、日本を挑発し、それをきっかけに日本と同盟関係にあったドイツと戦うシナリオである。
そのもっとも顕著な例が有名な「ハル・ノート」である。ハル国防長官は当時行われていた日米交渉の最後になって、従来の交渉の一致点を全て無視して、始めには提示しなかったような最後通牒とも言える厳しい条件を突如だしてきた。
アメリカはその時点で、日本と戦う意志を固めていたのは事実のようであると、高坂は推測する。
さらに高坂は言う、以上の事から日本に責任がなかった事を意味するものでは全くないと。

2026年7月28日火曜日

講演 「漱石の悲しみ」司馬遼太郎講演録より

          「菫ほど小さき人に生まれたし」

ここでは講演に対する感想というより、明治における日本語の言文一致運動の流れを中心に論旨を纏めています。
その日本語文章の完成者と言われている「漱石の悲しみは何だったろうか?」を考えていただけたらと思います。

 「漱石の悲しみ」の講演の論旨
明治時代は、全ての事象や概念(芸術や政治だけでなく色恋沙汰まで)を表現するための新しい日本語(言文一致体)を試行錯誤した混迷の時代でした。

今の我々からは想像しにくいのですが、当時の日本人は、すべて七五調か八六調の馬琴崩しの文章しか持っていませんでした。
そして坪内逍遥が「小説神髄」を書き、逍遥に勧められて二葉亭四迷が言文一致を目指して「浮雲」を書きます。日本語が、文章として口語になった革命的なものでした。ただこの「浮雲」も三馬を横に置いて書いたらしい。近代小説の夜明けにしては寂しい話です。

一方正岡子規は、「漢文にしても江戸時代の文章にしても、言わんと欲する事があって書いているのではなく、文章という美学的作業をやっている。ただ名文を連ねているだけだ」と主張し、「文章というものは、言わんとするためにあるのだ」と考え、「山会」という勉強会を始めます。正岡子規、高浜虚子、伊藤左千夫など、そこへ漱石も顔を出していた。鷗外も来たことがあるそうです。子規の考え方、つまり「写生」という方法が、漱石に事物や人間を観察して描く姿勢を与えたと言えます。

その「山会」で高浜虚子がたまたま漱石に「ホトトギス」に小説を書いてみませんかと勧め、「吾輩は猫である」の誕生に繫がります。
その後、漱石は書く毎に文体やテーマを変えて行きます。
「三四郎」になると明晰な文体で書かれ、今読んでも非常に面白い。司馬は「三四郎」によって、日本語の近代の散文は一つの完成を見たと評価しています。

この講演で、漱石の文体は三つの流れが重なってできたものだというのが見えてきます。
江戸文学・日本古典・・・「吾輩は猫である」「坊ちゃん」:江戸の滑稽本や落語
漢文・漢詩・・・・・・・「草枕」:美文調の文体
英文学・・・・・英文学から学んだのは「文体そのもの」より、「小説とは何か」という考え方。特に、イギリスの小説では、①人物の心理を描く ②会話によって性格を表す ③日常生活を細かく観察する・・・という近代小説の伝統がすでにありました。
漱石はこれを見て、「日本語でもこういう小説を書かなければならない」と考えたのだと思います。しかし、日本語でどう実現するかは、漱石自身が試行錯誤して作り上げました。
さらに漱石は、「それから」「門」「こころ」「明暗」へ進むにつれて「近代人の孤独」「個人のエゴイズム」という人間の普遍的な、重要な問題に踏み込んでいきます。

その日本語の散文の完成者である漱石も、当初は行きたくもないロンドンに行き、異文化というよりも当時の世界の覇権国家との出会いによって衝撃を受け、打ちひしがれて帰ってくるわけです。だから漱石はその後、英文学については失望や挫折というより縁切りをしています。漱石という人は明治時代に立身出世のカードを全部持っていた人で、それを全部捨てた人です。
その漱石に・・・「菫ほど小さき人に生まれたし」・・・という俳句があります。
すみれは日本の「古今集」にもあまり出てこない、目立たない花です。漱石はその花を見て、来世にもう一度生まれ変われるならと・・・この俳句を作ったのでしょう。
司馬は、この「菫ほど小さき人に生まれたし」という一句に、近代という巨大な文明を知ってしまった漱石の、静かな孤独と悲しみを見たと思います。

〈余談〉
前回のブログで取り上げた水島美苗の「日本語で書くということ」でも書きましたので、繰り返しになりますが、再度掲載します。
漱石は晩年「明暗」を書いている時は、午前中に執筆し、午後は漢詩を読んで気分転換を図っていたそうです。
漢文に親しんで育った漱石が英文学と出会い、その衝撃を受け、困惑し、最後には反発していった気持ちが少しだけ分かったような気持ちになりました。

以上、講演の内容をダイジェストしただけですが、この講演は2時間半にもおよぶ長時間の講演で、聴衆を飽きさせないために他にも色んな事を言っています。面白い講演なので、興味のある人は是非原文を読んでいただきたいと思います。

2026年7月19日日曜日

読書 「日本語で書くということ」 水村美苗

    漢詩に親しんだ漱石に近代小説が与えた衝撃


著者:水村美苗
出版:ちくま文庫

寡作の作家なので、知らない人も多いと思いますので、著者の紹介から始めます。
1951年生まれ。父親の仕事の関係で12歳で渡米、米国滞在が長くイェール大学博士課程卒。プリンストン大学・ミシガン大学・ミシガン大学等で日本文学を教える。
夏目漱石の「明暗」の続編として書いた「續明暗」は高く評価され芸術選奨新人賞を受賞し、「日本語が亡びるとき」で小林秀雄賞等、殆どの著書で何らかの賞を受賞しています。



「日本語が亡びるとき」で、著者を知り今回の「日本語で書くということ」を読んだ次第です。
本書は「日本語で書くことへの希望」や「日本近代文学について」等の評論が納められており、中でも以下に取りあげる「文学の歴史性を読む」は、非常に面白い評論でした。
〈一部抜粋〉
「現代の小説は、英語の小説がそのまま日本語になったようで、世界の小説との繋がりが感じられない。漱石の作品にそれが感じられるのは、海を渡ってやってきた文学との出会いの衝撃が、まざまざと痕を残しているからにほかならない。その痕こそ文学の歴史性である。その根底にあるものは、西洋の『近代小説』の前提をなす『恋愛至上主義』に対する漱石の困惑である。漱石がそれまで親しんできた漢籍の中では罪悪ですらある行為に最高の価値を与えるものなのである」

つまり漢籍や儒教文化圏において、恋愛が最高の価値どころか、礼や義を乱す危険な私情として厳しく抑制されてきたという過去の文化というか精神を背負っていた漱石。
現代では実感しにくいのですが、漱石が西洋文学に出会ったことにより受けた衝撃の強さ。そして戸惑いや困惑が生じた事は、明治という時代を考えれば、それなりに察しられるというより、むしろ我々の想像以上の事ではないかと思われます。
確かに、『それから』『門』『こころ』などでは、恋愛と道義・社会との葛藤を何度も描いています。そこには西洋文学をそのまま受け入れられない戸惑いが色濃く表れているのかも知れません。
漱石が「明暗」を執筆中は、午前中に原稿を書き、午後からは漢詩を愉しむ事で、精神のバランスを保っていたという話も納得がゆきます。

また、違う視点ですが、漱石が近松門左衛門の「心中もの」をどう見ていたのか?
「源氏物語」から「近松」まで続く日本の恋愛史の観点から見れば、漱石はどう位置付けられるのか? 
それが分かるような本があれば、読んで見たいと思います。

2026年6月18日木曜日

街道を撮りにゆく 湯島台~駿河台

                       神田明神・湯島聖堂・聖橋・ニコライ堂

家康が江戸に入府した頃は、現在の神田川の上流(平川)は、日比谷入江(現在の皇居前広場や日比谷公園付近)へと流れ込んでいました。
そのため大雨のたびに江戸城周辺が水害にあうため、流路を東へ変えて隅田川へ放流するという壮大な計画が立てられ、
この中でも最も困難を極めたのが、現在の御茶ノ水駅周辺にあった「神田山」の掘削です。
この神田山を切り通したことにより、この付近は湯島台と駿河台とに分かれ、現在の御茶ノ水に人工の谷(茗渓)が出来上がりました。

今回は、神田明神、湯島聖堂、ニコライ堂、そしてこの二つの聖堂を繋ぐことから名づけられた聖橋を回りました。




〈神田明神〉

正式名称は神田神社(かんだじんじゃ)
神田祭でよく知られていますが、神田、日本橋、秋葉原、大手町、丸の内、築地など108の広大な町の総氏神さまです。

〈神田明神・男坂〉
2013~2014年にTV放映された国民的大人気アニメ『ラブライブ!』でμ's(ミューズ)のメンバーたちが走り込みのトレーニングを行ったことで、アニメの聖地になったそうです。
当時は、男坂で階段ダッシュを行うファンも多く見られたそうです。










〈銭形平次の墓〉
野村胡堂の小説の主人公で、度々映画化やTV放映されてきた「銭形平次」の墓が神田明神内にあります。
小説では
銭形平次の住まいは神田明神下となっています。
この碑の周りを囲っているのは。銭形平次が使う「投げ銭」こと「寛永通宝」を表面にあしらった石柱でした。
また、右横に小さくある碑は手下の「ガラッ八の八五郎」の碑です。








発起人をみますと、銭形平次のご利益にあやかった出版社、映画会社、テレビ会社の建立当時の社長名および主演を演じた長谷川一夫(映画)と大川橋蔵(テレビ)、さらに下の段まで見ますと「銀座・銭形」というレストランや「神田のれん会」という名前がありました。












〈湯島聖堂〉「昌平坂学問所」

5代将軍・徳川綱吉によって創建された孔子廟(儒教の祖・孔子を祀る廟)で、後に幕府直轄の学問所「昌平坂学問所」となりました。日本の近代教育発祥の地としても知られています。
大正11年(1922)湯島聖堂は国の史跡に指定されましたが、翌12年(1923)関東大震災が起こり、わずかに入徳門と水屋を残し、すべてを焼失しました。

東京帝国大学伊東忠太教授の設計により、寛政時代の旧制を模し、鉄筋コンクリート造りで
1935年昭和10年再建を果たしました。

伊東忠太といえば妖怪趣味で知られる設計家で、湯島聖堂再建の際に、屋根や細部に配置した空想上の霊獣(妖怪)の彫刻は、オリジナルよりもデフォルメが強く、少し不気味でユニークな造形(妖怪的テイスト)と言われています。
代表的なものとして、大成殿の屋根に「鬼犾頭(きぎんとう)」と「鬼龍子(きりゅうし)」が設置されています。

関東大震災の火災・東京空襲にも焼け残った入徳門

焼け残った水屋の一部









鬼犾頭(きぎんとう)(左写真の上)
大成殿の屋根の左右に配置された、頭が竜で胴体が魚(龍頭魚尾)の霊獣です。頭から潮(水)を吹き上げて建物を火災から守る役割を持っています。

鬼龍子(きりゅうし)(左写真の下)
大成殿の屋根の四隅などに配置された、猫のような姿(猫形蛇腹)をした牙を持つ霊獣です。孔子のような聖人の徳に感じて現れるとされています。 





〈聖橋〉



聖橋からの眺め 地下鉄丸ノ内線・JR(総武線・中央線)が交差

神田川に放物線
を描くアーチ橋で、関東大震災(1923年)後の震災復興橋梁の一つで、1927年(昭和2年)に完成。
橋の北側の湯島聖堂と南側のニコライ堂の2つの聖堂を結ぶことから名ずけられた。(名前は公募による)

〈ニコライ堂〉
「ニコライ堂」は通称であり、日本に正教会の教えをもたらしたロシア人修道司祭聖ニコライに由来する。 正式名称は「東京復活大聖堂」
現在の姿は関東大震災で被災した後、
一部構成の変更と修復(1929年)を経て現在に至る。



2026年6月13日土曜日

街道を撮りにゆく 秋葉原界隈

          サブカルチャーと歴史の街


〈サブカルチャーの街〉
JR秋葉原駅の改札を出ると、目に飛び込んできたのが、掲載した2枚の写真に見られるような光景・・・秋葉原は、アニメ、マンガ、フィギュア、メイドカフェ等日本のサブカルチャーの文化が集結する世界的な聖地ということが実感できます。外国人も多くいます。
昔の電気街というイメージからは、かけ離れてコアなファンや観光客が交流する一大拠点として機能しているようです。







従来の非常階段
〈ペンシルビルと非常階段の深化〉
秋葉原の駅前も他よりは遅れたが、再開発されてきました。ただその一画から一歩外に出ると、ペンシルビルが立ち並んでいます。
再開発をするデベロッパーからは、開発秩序を乱すと批判されてきましたが、そっと慎まし気に立つ姿は、微笑ましくもあり、たくましい生命力に満ちている感じもします。

そのペンシルビルの非常階段を見ますと、面白い進化というか深化というべき発展をしているのに気づきます。





オモテに露出した非常階段
非常階段は、これまで建物の裏または他からは見えない側面にひっそりと設置されるのが一般的でした。
ビルの裏とか側面に設置するというのは、そこへの通路も必要になります。
東京のように高密度・高集積化された街ではそのような場所さえ奪われ、オモテの世界へ引きずりだされてしまったようです。
オモテに引きずり出された非常階段は、デザインがより派手になり、ビルの一部に組み込まれているように見えます。





旧万世橋駅
かつて、中央線の神田~御茶ノ水間に、明治45(1912)年に開業した「万世橋駅」がありました。(昭和18年に休止)
赤レンガのホームや階段など、駅の施設が一部残っています。
現在は、これら駅の遺構は見学でき、なおかつ新しい商業施設として再開発されています。

〈昌平橋〉
万世橋から神田川沿いに御茶ノ水方面に向かうと昌平橋があります。
この橋は神田川の架橋の中で古くから存在する橋です。
この川の上流方向(御茶ノ水方向)を見ると、昔(江戸時代)は、坂の上に昌平坂学問所(湯島聖堂)が見えたことから名づけられたそうです。
歌川広重の名所江戸百景に「昌平橋聖堂神田川」として描かれています。
現在では、昌平坂も湯島聖堂も建物の陰になって見ることは出来ません。

歌川広重の名所江戸百景
左は、歌川広重の「名所江戸百景・昌平橋聖堂神田川」の浮世絵です。
中央上の神田川の崖の上に昌平坂学問所の建物が並んでいるのが見えます。












現在の昌平橋・JR総武線の高架橋が架かっています。


2026年6月10日水曜日

街道を撮りにゆく 隅田川(清洲橋・永代橋)

       個性的な清洲橋&永代橋

隅田川に架かる橋梁は、いずれも個性的な橋ばかりですが、特にライトアップされると昼間とは別の顔を見せてくれます。
中でも清洲橋と永代橋はひときわ個性的です。共に関東大震災の復興事業として計画され、2007年に両橋とも国の重要文化財に指定されました。

清洲橋
深川区清住町と日本橋中洲町を結ぶことから「清洲橋」付けられました。

関東大震災後の復興事業で、ドイツ・ケルン市のヒンデンブルク橋をモデルとして1928年(昭和3年)に完成しました。
日本海軍向けに川崎造船所が製造していた低マンガン鋼を世界で初めて橋梁に使い、強度を高めています。
近くで見れば重厚感があり、遠目に見ると優雅な姿が印象的です。

清洲橋全景






















清洲橋通りの全面ガラス張りのビル(カーテンウォール)に映った清洲橋















支柱に身体を預け、手持ちで2秒・・・何とかしのぎました。




























隅田テラスの防護フェンスに映り込んだ清洲橋と屋形舟






















〈永代
「震災復興事業の華」と謳われた清洲橋に対して、「帝都東京の門」と言われたこの橋はドイツの ルーデンドルフ鉄道橋をモデルにし、1926年(大正15年)に完成しました。
現存最古のタイドアーチ橋かつ日本で最初に径間長100 mを超えた橋です。












































橋の下流には佃島の高層住宅群が見えます。




























2026年5月18日月曜日

読書 「夏目家の福猫」半藤末利子

          夏 目 家 の 福 猫

著者:半藤末利子
出版:新潮文庫

著者は、夏目漱石の孫(漱石の長女・筆子と作家・松岡譲の次女)にあたる。

家族ならではの視点で夏目家の日常や漱石の思い出を描いた短編のエッセイ集ですが、こと漱石に関しては、著者は漱石没後に生まれたので、母・筆子から聞いた話が中心となっています。

〈猫について〉

冒頭の「漱石夫人は占い好き」には、「吾輩は猫である」のモデルになった猫の話から始まる。これは原作(猫)にも書かれている通りの野良猫であったのが、漱石の「この家が気に言っているのだろうだから、飼ってやればいいじゃないか」の一言で飼うようになったのだが、響子夫人は大の猫嫌い。ところが出入りのあんま師が、その猫を見て「足の爪まで黒い珍しい福猫でございます」と言った事から、占い好きの響子夫人の態度が一変し、それまでの猫への虐待を改めて、好待遇になったそうだ。 

この箇所を読んで私の本棚の隅に「吾輩は猫である」があったので、20ページほど読み返してみた。最初に読んだのが中学生くらいだったので、殆ど記憶に残っていなかったが、驚いたことが二つ。

   原文が今の文章と全く変わらず、なんの抵抗もなくスラスラ読める事への驚き。
明治になって文章について「言文一致運動」があったが、二葉亭四迷以降、各作家は独自にその問題を試行錯誤しながら苦しんでいたが、その変遷の結果、漱石は「言文一致運動」における完成者と言われているが、成程と合点がいった次第です。

   最初に読んだ時のおぼろげな印象では、面白かったように思っていたが、歳を経た今読んでみると「苦味」がある。若い時に読んだ時と、現在読んだ時の変化・・・漱石文学の深みと言うべきか。

〈漱石の家庭内暴力〉

イギリスに留学した漱石が帰国した時は別人になっていた。ロンドンから文部省に「夏目発狂す」という電報が舞い込むほどの変化を家族は知らなかった。

漱石は、現代でいう家庭内暴力(DV)を振るうようになっていた。しかも発作が収まれば本人は全く自覚していない。世間では響子は「ソクラテスの妻」と並び称されるほどの悪妻として通っているが、母(筆子)に言わせれば、響子だから漱石とやって行けたのだと言う。また、常軌を逸した行動や傲慢さを漱石という人は微塵も有していない。彼を変えたのは周期的に襲ってくる「神経衰弱」という病気であって、生の漱石は稀にみる心の温かい物わかりの良い優しい人だったと母(筆子)はよく言っていた。
※漱石は、イギリス留学中の孤独や極度のストレスから、強い不安、不眠、気分の落ち込みに悩まされ、帰国後は、「誰かに監視されている」「毒を盛られる」といった強い被害妄想や幻聴に苦しむようになり、現代の精神医学では統合失調症や躁うつ病(双極性障害)の可能性も指摘されています。

明治40年に朝日新聞社に入社して本格的な作家活動を始め、文学という形で内面の葛藤を吐き出せるようになってからは、この激しい発作や暴力は次第に落ち着いていったそうです。

〈半藤末利子氏の批判精神〉

筆者半藤末利子氏の夫・半藤一利氏は、文藝春秋社の編集長や役員も務め、作家としても有名な人物だが、著者は「うちの宿六」とか、「テレビに夫の長い顔が登場する」とか手厳しい。
ただ、彼女の批判精神は「一歩引いて冷ややかに、かつユーモラスに観察する」という、極めてさっぱりとした風通しの良い性格が見て取れ、晴らしいエッセイストと言えるでしょう。この批判精神は、流石に漱石の孫です。

2026年5月10日日曜日

読書 「明治維新の意味」北岡伸一

                躍 動 す る 明 治


著者:北岡伸一
出版:新潮選書

圧倒的な重厚感がありながら、かつ読みやすい本です。
日本外交史の第一人者にして、元国連大使、現在は国際協力機構(JICA)の理事長を務める著者の渾身の力作である。
逆に言えば、明治維新に関しての専門家ではないが、広い視野で明治維新の世界史的意味を解き明かしている。単に明治政府の国造りの困難さだけでなく、その前の時代である江戸時代の遺産から、当時の世界およびアジア情勢まで目配りが行き届いている。
明治維新というと「富国強兵」の印象が強いが、維新の本質は民主化であり、自由化であり、人材登用革命であると著者は言う。こうした迅速な改革が実現した要因として、著者は大久保利通、伊藤博文、福沢諭吉らに注目する。

日本の学界では、昭和の初め頃は、正当な歴史学は明治のような近い過去をテーマとして扱わないという考えかた強く、近代の研究に消極的だった。その間に、マルクス主義経済学の間で研究が進み、主流の「講座派」は「絶対主義の確立」と捉え、明治維新に否定的な評価だった。(学会の一部では「マルクス主義のカテゴリーに当てはまらない民族革命」という意見もあった)
(余談)上記の部分を読んで、司馬遼太郎の「坂の上の雲」は、当時では珍しく明治時代を肯定的に描いたため、多くの論争や批判が噴出したのを思い出します。

江戸時代の価値観が崩壊するなかで、短期間に東京遷都、版籍奉還から廃藩置県、廃刀禁止令や武士に変わる徴兵制度、地租改正、通貨の発行、鉄道の敷設、義務教育、その後の産業育成、憲法の発布と帝国議会の開設と矢継ぎ早に実施している。

その中で、大久保利通の存在は大きく、一部では大久保独裁といわれているが、日本の将来ビジョンを持ち、明治11年に暗殺されるまで、日本の抱えた重要な課題を背負って、殆ど一人で実践していった貴重な存在であった。西郷隆盛には将来ビジョンがなく、木戸孝允は理想主義者であった。大久保のように泥をかぶってまでやり抜く剛毅な精神がなかったなら、東京遷都~征韓論~西南戦争に至る難局を切り抜けられなかったであろうと著者は言う。
東京遷都は、 江戸は100万人の世界有数の大都市であり、将軍の居城(江戸城)がそのまま利用できるなど、インフラが整備されているという理由もあるが、大久保は、天皇を取り巻く公家は保守色が強く、明治になっても極一部を除き攘夷主義者が多数を占めていたので、天皇をそういう環境から切り離したかったというのには驚かされる。

面白いのは、この本の前半部分を読んでいて、あたかも司馬遼太郎の「翔ぶが如く」を読んでいるような錯覚に陥った。また大久保・西郷・木戸への評価も、見事に一致している。
政治学者と作家というアプローチの違いはあれ、解釈がシンクロしているのには驚く。「近代化のリアリズム」という共通の評価軸がそうさせたのかも知れない。

そして様々な経緯を経て、憲法発布や帝国議会の開設と進むが、日露戦争後に軍の独立性が進み、その後昭和になり、政党政治が難局処理に失敗した時、軍部が政治に進出していくのであった。またかつて自由民権運動を支えたメディアの変質もあり満州事変の勃発以後、大新聞は一斉にこれを賛美し報道した。
著者は、明治維新は確かに民主化であったが、民主化の行き着くところは大衆化であったと言う。リーダーも徐々に多数を取る事に勝れたリーダーや組織に利益をもたらすリーダーが、見識にかかわらず、組織を率いる事になった。
日露戦争以後、様々な集団において制度化、合理化が進み、それとともに、リーダーの凡庸化、平凡化が進んだと見ている。

著者は「あとがき」で述べている。
「明治維新を再検討してみて、もっとも印象的なのは、日本が直面した最も重要な課題に、もっとも優れた才能が全力で取り組んでいたという事である。国際協力機構(JICA)の理事長として、世界の途上国と向き合う時も、その国が直面する最も重大な課題に、もっとも優れた才能が全力で取り組んでいるかどうかが決定的に重要だと痛感している」

2026年4月24日金曜日

読書 「奏鳴曲ー北里と鷗外」海堂尊

       感染症と戦った二人の対立


著者:海堂尊
(「チーム・バチスタの栄光」の著者)
出版:文春文庫

〈あらすじ〉
明治時代に日本の感染症医学と衛生行政の確立に奔走した「細菌学の父」と呼ばれる北里柴三郎と、陸軍軍医総監にして文豪の森林太郎(鷗外)の知られざる対立や影響しあった事を描いた歴史医療小説です。

二人は「感染症から国民の命を守る」という同じ志を抱き、共にドイツへ留学し、世界的権威ロベルト・コッホの秘蔵っ子となる北里。その縁で森もコッホの下で学びます。帰国後、理想を掲げる二人は次第に道を違えていき、北里が民間の立場から実学としての細菌学を追及する一方、森は陸軍という組織の中で官僚的な衛生行政を担っていく。

結核菌やコレラ菌を発見したコッホ。その秘蔵っ子の北里もペスト菌や破傷風菌の発見、また破傷風菌の血清療法の開発等、世界的な学術成果を挙げた。
だが、北里は政府の官僚的な体質を批判したのが祟って、帰国後は冷遇され宙ぶらりんの状態であった。そこへ福沢諭吉が救いの手を差し伸べて私立の研究所を設立し、北里も活動の場を得るが・・・

一方の森は順調に軍隊での出世と作家としての才能を開花させるが、脚気(かっけ)問題では、後世に大きな汚点を残している。
当時は、脚気(かっけ)での死亡が深刻な社会問題となっていた。
陸軍では、脚気は細菌感染という考え方が主流であったのを配慮した森は、栄養学の観点から陸軍の白米食を理論的にバックアップし、海軍が採用した洋食+麦飯(麦と米の混合食)への切り替えを認めず、白米食を維持する立場を取り続けた。
その結果、日露戦争では、戦死者よりも脚気での死者が多い事態(28,000人以上)となるが、陸軍はその事実をひた隠しにし、陸軍軍医としての森の立場は揺るぎなかった・・・しかし死にさいしては・・・

〈読後感〉
明治という時代には、感染症等の病気の原因は分かっていなかったが、光学顕微鏡の出現によって、次第に明らかになっていく時代であり、更にpost顕微鏡に移行する時代でもあった。その時代の流れに乗り切れなかったら、落ちこぼれていく過酷な世界でもあり、現在のような激しい世界的な競争が、既にこの時代に始まっていたのがよく分かります。

陸軍軍医としては最高位の陸軍軍医総監(中将相当)まで登り詰めた森だが、北里の大鷲のような強靭さと、目標に対して一直線に翔けて行く意志に対し、森は常にコンプレックスを抱いていた。また森家の家長としての期待、組織人としてのしがらみに常に悩まされていたので、そのはけ口として文学の道へもひた走るが・・・
そういう事象が淡々と書かれているのですが、森林太郎(あるいは鷗外)の苦悩の掘り下げ方が今一つ心に響かないという感じです。
全体として面白く読み通せたのですが、読後感となると、いまひとつ物足りないという感じになったのは残念です。

故山崎正和氏の「鷗外 戦う家長」という優れた評論があります。そこでは明治という国家の期待を背負いながら、家というものを必死に守り抜こうとした一人の男の「闘い」と「孤独」を浮き彫りにしています。
「挫折しないことへの不安」に怯えながら、最後まで社会的役割を演じ続けた森が、死の床ですべての社会的肩書きを拒否し、「森林太郎」として死んでいく事実。そこから逆に遡って考えれば、もっと哀れな、悲劇的な人間として森を描けたのでは・・・読者の身勝手な思いですが・・・

2026年4月22日水曜日

街道を撮りにゆく 根津美術館(尾形光琳展)

光琳派・・・「燕子花図」と尾形光琳のフォロワーたち

根津美術館のエントランス






















毎年燕子花(カキツバタ)の咲く時期恒例の「根津美術館の尾形光琳展」に行ってきました。
以下、写真でご覧下さい。

今回は「琳派」ではなく「光琳派」という定義での「開館85周年記念特別展」です。

「琳派の系統」
俵屋宗達:生没年不詳
尾形光琳:1658年~1716年
酒井抱一:1761年~1829年
「琳派」は、上記の世代の異なる3人の画家が、直接の接点はないものの、いずれも先人に対する憧れによって画風が継承され、形づくられたと謂われています。

今回の企画は、特に尾形光琳の弟子や手ほどきを受けた人々にスポットを当てています。




大好きな尾形乾山の絵付け皿等が、かなり展示されていたのは嬉しい限りです。















2階へ上がる階段から見た一階フロアー
























展示会場は撮影禁止ですので、以下の資料でご覧下さい。画面をクリックしますと画像が大きくなります。







2026年3月27日金曜日

街道を撮りにゆく 身延山久遠寺

             歴史と桜の久遠寺


久遠寺の三門












  3月23日、久遠寺の桜が8分咲きとのことで、初めて行って来ました。翌朝のNHKのニュースでも取りあげられ、その後は寺院近くの駐車場は大渋滞とのことです。

久遠寺は、750年の歴史を持つ日蓮宗総本山でかなりの山奥ですが、門前は宿坊や土産物店等なかなかのにぎやかさです。

総門を潜ると、いきなり287段の階段があり、青息吐息で登りました。

















「履物の奉納品」
身延山久遠寺に巨大な下駄や草履が奉納されているのは、主に足腰の健康(健脚)への願いと、日蓮聖人が厳しい修行のために山中を歩き続けた足跡を称えるという意味があるそうです。

五重塔













建物を挟んで紅白2本のしだれ桜









樹齢400年のしだれ桜