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2026年11月3日火曜日

読書メモ「昭和16年夏の敗戦」 猪木直樹

         日本最大の悲劇の原因は?


著書名:昭和16年夏の敗戦
著 者:猪木直樹
出 版:中公文庫

1940年(昭和15年)10月に総理大臣直轄の組織として「総力戦研究所」が発足した。当時イギリスにあった帝国防衛大学(Imperial Defence College、IDC)を模して創られた。「陸軍大学校」のような軍人だけの学校とは全く異なり、陸・海軍の優秀な将校だけでなく、官僚さらには民間企業など、国家のあらゆる分野から将来を嘱望される30代の中堅エリートが集められた。
これは、第一次世界大戦を経て、「これからの戦争は軍隊同士の武力戦だけでなく、経済、外交、産業、情報、国民思想のすべてを動員する『総力戦』になる」という教訓から設立された。そのため、純粋な軍事戦術ではなく、「国家の総力をどのようにコントロールし、世界戦略を組み立てるか」を1年間の合宿形式で徹底的に研究・議論したそうです。

その「総力戦研究所」の一期生の平均33歳の若きメンバー達が、「模擬内閣」を作り、1941年7月から8月にかけて行われたアメリカと戦った場合の机上演習を行った。その結果は、「緒戦は勝つが、長期戦になって物量・工業力の差で3〜4年後に敗北する」「最終的にはソ連が参戦する」という予測が導き出された。
オランダ領東インド(インドネシア)の油田を確保したとしても、アメリカの潜水艦にタンカーが沈められて、石油などの資源が枯渇することなどもリアルに想定されていた。つまり原子爆弾の投下以外の戦争の大局的な帰結については、驚くほど正確な予測だった。

この極めて精緻なシミュレーション結果は、1941年8月27・28日に首相官邸で開催された研究会で、当時の近衛文麿首相や東條英機陸軍大臣をはじめとする政府・軍部の首脳陣に直接報告された。
報告を熱心に聞いた東條陸相は、若手たちの労をねぎらいつつも、以下のように発言「諸君の研究の労を多とするが、これはあくまでも机上の演習でありまして、実際の戦争というものは、君たちの考えているようなものではないのであります。(中略:日露戦争の例を持ち出して)戦というものは、計画通りにいかない。意外裡の要素というものを考慮したものではない。なお、この机上演習の経緯を、諸君は軽はずみに口外してはならぬ」と。

その報告会の帰り道で、研究生の一人は「東條さんの考えている戦況は、われわれの演習と相当近いものだったんじゃないか。でなければ『口外するな』なんて言わないよ」と言ったという。研究生たちには思い当たる事があった。東條は度々研究所を訪れ傍聴していたという。総力戦研究所が担うべき役割について深い関心を寄せていた数少ない首脳の一人だった。恐らく東條自身、日米の物量差は理解しつつも、「何もしなければジリ貧(石油禁輸による自滅)になる、戦うしか道はない」という強迫観念に囚われていたのかも知れない。
当時の日本政府や軍部は、すでに結ばれていた日独伊三国同盟や、それまでに積み上げてきた国策の「既成事実」、そして「今さら引けない」という組織内の空気や忖度に支配されていました。論理的なデータがあったにもかかわらず、「決定的な決断を下す責任者」が不在のまま、国全体が引き返せない破滅への道へとズルズルと突き進んでしまう。またマスコミも国民も戦争の雰囲気を煽っていった。

高坂正堯の本を読むと、戦争目的も不明瞭で、いつ終わるか分からない泥沼化していた「支那事変」に割り切れなかった国全体の雰囲気が、真珠湾の攻撃に成功した時、それまでの鬱屈した心情が一気にスッキリし、大方の日本人は興奮したという。文化人と言われる斎藤茂吉、高村光太郎、三好達治といった、当時のそうそうたるメンバーが賛辞の詩や歌を発表している。
これは裏を返せば、戦争の目的や最終的な着地点を冷静に考えるよりも、目の前の勝利に国民が熱狂してしまったということでもある。
また司馬遼太郎がいうように、日本は日露戦争が終わった時点で坂の上に立ったが、その勝利は日本の国力の限界を超えたところで得られた勝利であった。政府はそのことを国民に情報開示しなかったため、その後のポーツマス講和条約の内容に不満を持った民衆が暴動を起こした段階から、坂道を転げ落ち始めたのかも知れない。

私などが若い頃手にした歴史の教科書を含めて、あの戦争は「軍部の独走」として、国民は全て被害者であった。悪いのは一握りの軍国主義者という図式が出来上がっていた。軍国主義が一転して民主主義に衣替えしたとき、その転換の生贄が必要であった。その象徴に東條があてがわれた。
確かに東條は首相としての重大な政治責任から逃れられないものの、開戦に至る過程には、陸海軍、政府、官僚、政党、財界など、多くの組織と人間が関与していた。さらに、戦争を支持し、熱狂した国民や、それを煽ったマスコミ、文化人の問題もある。

これは、ムードや雰囲気に惑わされることなく、何が真実かを見極めることの大切さを教えてくれる。しかし、それ以上に考えさせられるのは、真実を知ることと、その真実に基づいて行動することは別だということである。総力戦研究所の若者たちは、日本の敗北を予測していた。しかし、その合理的な分析は国家の意思決定を変える力にはならなかった。真実を認識する能力だけでなく、それを政策に反映させ、必要な決断を下す政治の責任とは何なのか。この本は、その重い問いを私たちに突きつけている。

2026年11月2日月曜日

読書メモ 「三島由紀夫・石原慎太郎全対話」

                 興 味 津 々 の 二 人 の 対談

片山杜秀氏の「大論争 この国の守り方」で、石原慎太郎vs三島由紀夫の事に触れており・・・片山氏の見立ては、三島は石原の「若さ」と「バイタリティ」、そしてそれを支える「肉体」にコンプレックスを抱いており、常に石原の後追いで対抗しようとしている(ボディビル・映画出演や監督等々)・・・という内容が面白かったので、二人に興味が湧き、この本を読んだ次第です。

私は、三島については「潮騒」「金閣寺」「春の雪(豊饒の海)」、石原については「太陽の季節」程度しか読んでいなくて、二人についてはマスコミ報道から受けるイメージが中心であまり良い読者ではありません。

全部で9回の対談を行っており、その後三島が自決する5ケ月前には、三島が毎日新聞で公開批判しており、それに石原が返答する形で終わっている。

対談は、最初は三島が、欧米文学や日本の古典の知識を披露して、先輩格である態度で接しているが、時間の経過と共に、対等な関係になっていくのがよく分かり、最後の対談では三島が日本の歴史・天皇・神話に関する解釈の違いで、相当に苛ついて怒る場面もあります。
これは、単なる意見の相違ではなく、三島が命を懸けようとしていた聖域(天皇制)を、石原がどこまでも近代的・自己肯定的な視点でしか捉えなかったことへの、三島の絶望と焦燥が浮き彫りになった結果かも知れません。
中でも面白かったのは、演劇の脚本を書くことについての対談。脚本家と演出家・役者間の理解や力関係において、それぞれの違いについて興味が湧きました。特に歌舞伎については脚本家より役者の力が大きく作用し、脚本家の思いが通じないと言う。三島も石原も劇場という空間に深く関わったからこそ、「言葉(脚本)」が「肉体(役者)」に裏切られたり、あるいは凌駕されたりする現場のダイナミズムを、実感を伴って語り合えたのだと思います。
意外だったのは石原については、晩年のイメージで政治家という印象でしたが、インテリジェンスのある文士であることを痛切に感じました。

最後は喧嘩別れのような形になっていますが、三島も石原もお互いに文学だけでは物足りず、いろんな形で自己表現をしたいという共通点もあり、お互いに刺激し、思った事を言い合える仲だったと思います。
三島の自決という結末を知っている私たちは、どうしてもそこから逆算して三島の言動を解釈しがちです。しかし、この対談集では、まだ生きて活動している三島と石原が、互いに刺激を受け、議論し、時には笑い、時には激しく反発する姿を見ることができた面白い対談集でした。