「知の旅は終わらない」
出版:文春新書
月刊文藝春秋(以下文春)の1974年11月号に「田中角栄研究-その金脈と人脈」という立花隆のレポートが掲載された。この一文により、一国の総理大臣が、その座から引きずり降ろされたことは、当時衝撃的であった。それによって「立花隆」というペンネームも全国に知れ渡った。
私も衝撃を受け、その後何冊かの著者の本を読んだ記憶がある。いずれも地道に資料を集め、テーマの外堀を埋め尽くして、結論へ導いて行く手法は凄いと思った。この手法を柳田邦男は、「調査報道の先駆者・確立者」として評価している。
ただ、臨死体験に関するものから、私は方向性に疑問を持ち、著者の本から離れて行った。
臨死体験というものは、生の記憶であって、本人が実際に死んだ訳ではない。こういうものを幾ら集めても何も出て来ないような気がした。
月刊文藝春秋(以下文春)の1974年11月号に「田中角栄研究-その金脈と人脈」という立花隆のレポートが掲載された。この一文により、一国の総理大臣が、その座から引きずり降ろされたことは、当時衝撃的であった。それによって「立花隆」というペンネームも全国に知れ渡った。
私も衝撃を受け、その後何冊かの著者の本を読んだ記憶がある。いずれも地道に資料を集め、テーマの外堀を埋め尽くして、結論へ導いて行く手法は凄いと思った。この手法を柳田邦男は、「調査報道の先駆者・確立者」として評価している。
ただ、臨死体験に関するものから、私は方向性に疑問を持ち、著者の本から離れて行った。
臨死体験というものは、生の記憶であって、本人が実際に死んだ訳ではない。こういうものを幾ら集めても何も出て来ないような気がした。
今回著者の死去によって、標記の本を読み始めた。
良い意味でも悪い意味でも、立花隆の自画自賛で綴られた自叙伝ともいうべき本である。
生い立ちの中で、小学校でIQテストが校内で一番になったこと。高校の時に旺文社の大学入試模試において全国で1番になったこと。理系に行きたかったが色弱なので先生から理系は無理と言われ、東大の文学部へ行ったと、くどくどと書いている。このくだりは他の本でも書いていたように思う。
田中角栄関連の項は面白かった。
この記事の影響で、田中陣営から文春の上層部に圧力が掛かり、文春が完全に手を引いてしまったことを知った。
著者は、自分のやりたいことの中で、適正な時間配分を考えれば、せいぜい1ケ月程度の時間配分に値するテーマで、もうこの男(田中角栄)にはうんざりしていたと、当時書いている。ただこの時書いていた続編が文春に掲載されないことになり、それであんな奴に負けてたまるかという思いが一気に噴き上げてきて、それから1万枚にも及ぶレポートをいろんな出版社(講談社や朝日ジャーナル等)を通じて、書き続けたとのこと。
この箇所を読んで、今では文春は当時の事は忘れたかのように、「田中角栄研究」は文春の金字塔のような態度を取っているのが、メデアとはそういうものかと面白く思えた。(厳密にいえば、あの記事を書くにあたってのチーム編成やそれに伴う出費は文春が負担はしたが・・・)
本文からは逸れるが、立花隆と佐藤優の対談集「ぼくらの知能の鍛え方」を読むと、意見の対立する場面では、全体的に佐藤優が少し引いて妥協しているように思えたが、一部刺々しい箇所もあり、一般的な対談とは違って違和感が残った。
文春の8月号の追悼文で、佐藤優は、「立花氏の知性は、私とは、ほぼ対極にあるといえるくらい異質なものだった・・・略・・・対談している途中で私は立花氏と一緒に仕事をするのは、これで最初で最後になると思った」と述べている。上記の対談での違和感を抱いた感じが少し分かったような気がした。
本題に戻ると、全般に読みやすいし、立花隆という異能なノンフィクション作家の行動軌跡が分かります。
文中で「考えてみれば、書くという仕事も、まさにノマド(遊牧民:著者はフリーターの走りとも言っている)そのものであるともいえます。山ほどの好奇心を抱きかかえて、その好奇心に導かれるままに仕事をしてきた。それが僕の人生なんですね」という言葉がすべてを言い現わしていると思う。
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