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2025年6月17日火曜日

街道を撮りにゆく 谷川岳(一ノ倉沢)

     魔の山と呼ばれた一ノ倉沢にも新緑が























6月上旬に谷川岳連峰の一ノ倉沢を訪ねました。
ここは、過去に800人以上の遭難死者を出し「世界の山のワースト記録」としてギネス記録にもなっている谷川岳。(主に一ノ倉沢での遭難死)この地にも新緑が溢れていました。
以下、写真をご覧下さい。

最初に出迎えてくれたのが、このカエルさんです。

当初「ヤマアカガエル」と思っていましたが・・・後日調べました。近くにあった産卵の形状と鼓膜の位置や大きさから、「アズマヒキガエル」のようです?
これが「ガマの油」でお馴染みのヒキガエル???

でんと構えて、近づいても逃げないのです。

















マチガ沢の雪渓



























この辺りは豪雪地帯なので、雪の重みに押されて、ブナも変形しています。


















かつて「魔の山」と恐れられた一ノ倉沢は新緑に覆われていました。


























































一の倉沢の巨大な残雪・・・今回の目的は、この残雪を見ることでした。

以上、ご覧いただき有難うございました。

2025年6月11日水曜日

街道を撮りにゆく 残雪の月山

      残雪とブナの根開けを求めて


5月下旬に、ブナの根開けを見たくて月山へ行ってきました。
以下、写真でご覧ください。
雪が溶けた後にはミニ湿原が出来ます


「雪もみじ」・・・雪上の茶色の物は、ブナの新芽を包んでいた鞘が落ちたものです






















(上・左)
 周海沼









翌日は濃霧から雨へ






















ブナの表面は、普段は白っぽく、雨で濡れると黒くなります。

ブナの幹を雨が伝って落ちてゆくのが分かります。
「樹幹流」と呼びます。

2025年6月10日火曜日

読書 「王城の護衛者」 司馬遼太郎

     歴史に翻弄された会津藩の悲劇


著者:司馬遼太郎
出版:講談社文庫

司馬の数多くの中・短編の中でも秀逸した作品の一つだと思う。
本書で書かれているのは、幕末の動乱期を舞台にした勝者・敗者の双方を取り上げているが、いずれも歴史に翻弄された人々を描いている。

表題以外に、岩倉具視の策士として歴史に大いなる影響を与えた玉松操を描いた「加茂の水」、日本史上最高の軍事家大村益次郎の非凡な生涯に触れた「鬼謀の人」(「花神」の別バージョンといえる)、長岡藩の天才的軍師河合継之助の悲劇を描く「英雄児」(「峠」の別バージョンといえる)、最後に幕末の異端児で、これも身分制ゆえに悲惨な生涯を送った岡田以蔵を描いた「人切り以蔵」が収録されており、いずれも読みごたえがある。

中でも表題の「王城の護衛者」は、会津藩の悲劇の顛末を描いている秀作です。
風雲急を告げる幕末の京、すでに京都町奉行所はおろか、京都所司代まで手がつけられないほどに勤皇倒幕の志士が跋扈し、無政府状態と言って言い状態であった。
その秩序回復には誰もが敬遠していた京都守護職という「貧乏くじ」を、会津藩が引かされる。その発端となったことが、本書の前半で詳細に書かれている。

会津藩主の松平容保(かたもり)は、江戸城内では、それほど注目を集める人物ではなかったが、「桜田門外の変」で井伊直弼が水戸・薩摩の浪士に襲われたことの対応の件で、一躍注目を浴びることになる。
かねてから水戸徳川家の京都偏向主義を憎悪していた幕閣から「これを機に、尾張・紀伊の徳川両家の藩兵をもって水戸を討伐しよう」という意見が出され、江戸城内の溜間詰の諸侯の意見を聞いたが、各大名は口を濁らせた返答のみで、可とも不可とも言わなかった。その時、たまたま容保に水が向けられた時に「水戸討伐などあってはならぬことです」ときっぱり言い切った。提案した老中が気色ばんで詰め寄ったが、容保は「ものには原則というものがある。水戸家は御親藩であり、これを他の御親藩をもって討たしめては御親辺相克のもととなり、乱が乱を呼び、ついに幕府の根底が揺らぎましょう」と。この事で水戸討伐は中止になったが、容保の運命が大きく変わった一瞬でもあった。

「会津侯は若いが、胆力もある。事理にも明晰である。御家門の中で徳川宗家の危機を支える人物がおらぬ時、思わぬ拾い物かもしれぬ」という印象を幕閣の誰もがもった。
後日、京都が無政府状態になった時に、治安維持のために会津藩に白羽の矢が立った。容保は断ったが、松平春獄や一橋慶喜らの執拗な説得で、最後には会津藩が滅亡するかもしれない覚悟で引き受ける。
会津藩は期待に応えて、孝明帝の信頼を得て長州藩を追い落とし、一旦は京の治安は回復するが、その後孝明帝崩御を境に一気に権謀術策に長けた薩長から「朝敵」の汚名を着せられる。鳥羽伏見の戦いの後は、徳川慶喜は心変わりをして蟄居し、薩長が振り上げた拳の矛先は会津に向かってゆく・・・

会津藩が時代に翻弄された歴史を見ると、なんともやりきれない複雑な思いです。

以下参考に読売新聞からの切り抜きを添付します。


2025年5月16日金曜日

街道を撮りにゆく 残雪に咲く桜(山形・小国町)

         残雪桜を求めて


〈このアングルからだと俯瞰できますが、中央を電線が横切っています〉





















山形県小国町に「残雪桜」と呼ばれている桜があります。
積雪の多い年に限って、残雪の上に咲くソメイヨシノが見ることができます。
今年の冬は積雪が多く、その当たり年だったようです。

その周辺の景色も含めて以下の写真をご覧下さい。






















(上)飯豊連峰の山々

(左)玉川沿いの新緑









(左)残雪の上に咲くソメイヨシノ
雪で折れた枝が地面に散らばっています






(下)星月夜の残雪桜






















(左)道端には蕗の薹も沢山あります




(下)田んぼアート
田んぼの雪が解け、キャンバスへと変化します。
正面に廃校の建物やガードレール、電柱があり、被写界深度を浅くして撮影しました。





2025年4月20日日曜日

読書 司馬遼太郎の「跫音」(関川夏央)

       司馬遼太郎の「跫音」


著者:関川夏央
出版:岩波書店
発行:2025年2月

司馬遼太郎の小説、評論、随筆、紀行文、対談、書簡等々全てを網羅して、司馬本人の思考、思想を論じた最高の一冊だと思う。(系統的に書かれたものではないが、すべてを合わせると結果的に優れた司馬遼太郎論になっていると思う)

著者は、これまでも司馬の講演集や対談等の解説等を手掛けてきたので、全作品に目を通すことに驚きはないが、この本の出版社が、司馬と関係が深かった文藝春秋や中央公論でなく、岩波書店ということに、若干の驚きを感じた。

司馬は1960年(36歳)に「梟の城」で直木賞を受賞した。当時産経新聞大阪本社文化部長になったばかりであったが、受賞後にわかに忙しくなり、1年後に退社し、専業作家となる。翌年から古巣である産経新聞に「竜馬がゆく」の連載が始まり、ほぼ同時に、この陽性な竜馬とは対蹠的な陰翳に富んだ「幕末」や「燃えよ剣」等の新選組を扱った作品を立て続けに刊行した。
そして司馬の人気が不動になったのは、65年からテレビドラマ化された「新選組血風録」以降のことである。(当時「竜馬がゆく」は出版社からは、売れ行きに不安を持たれながら、ようやく出版された状態だった)

この頃から司馬の作品は、従前の時代小説の枠にはとうていおさまらないという認識が、読者に浸透していった。それはまさに歴史小説の名に値した。
司馬の描いた主人公は、従来の歴史上の英雄ではなく、歴史に埋もれた人物を掘り起こして、英雄にしてしまった。(家康や秀吉を書いた例外もあるが、私には余り力が入ってないように思える)
司馬の小説の中心には、徹底的な事実の積み重ねがあり、主人公はおおかた平凡な人間であり、平凡な人間が非凡な時代に生きるうち、やむを得ず非凡な人間となって時代と関わってゆく姿を描いた。

私が思いつくままに掲げても、以下の主人公は、一部の分野の人には知られていたが、謂わば、歴史に埋もれていた人物で、司馬作品によってメジャーデビューしたというのは、言い過ぎだろうか。
斎藤道三(国盗り物語)、北条早雲(箱根の坂)、坂本龍馬(竜馬がゆく)、吉田松陰・高杉晋作(世に棲む日日)、土方歳三(燃えよ剣)、高田屋嘉兵衛(菜の花の沖)、大村益次郎(花神)、黒田官兵衛(播磨灘物語)、松本良順・関寛斎(胡蝶の夢)、秋山好古・真之(坂の上の雲)・・・等々・・・小説とは言い難いが、私が個人的に隠れた傑作と思っている「ひとびとの跫音」に至っては、世には殆ど知られていない正岡忠三郎(正岡子規の妹の律の養子)とその友人のぬやまひろし(本名は共産党幹部を除名された西沢隆二)との交流を描いている。

司馬は、思想、宗教、イデオロギーを嫌悪しつつ、そういうものとは裏腹に「人惚れしてしまう傾向」が強いように思える。その典型が「ぬやまひろし」だと思う。彼は戦前に非合法共産党員として12年間投獄され、戦後は共産党幹部にもなったが、余りにも過激な思想のため共産党を除名されたような人物である。彼は司馬が持つ常識を大きく食み出していたはずだが、司馬は敬意を持って対話を続けた。司馬は「(思想嫌いの)思想の人」であり、「保守」ではなく「リベラル」の人であると思える。
別の本で、司馬は「人間にとってその人生は作品である。この立場で私は小説を書いている」と、述べている事に通じるものがある。

一方、思想・イデオロギー嫌いの顕著な例が、70年の三島由紀夫自死事件であった。この事件の翌日、毎日新聞は朝刊の一面全てを使い「異常な三島事件に接してー文学論的な死」という見出しで、新聞としては異例に長い司馬の原稿を掲げた。大阪版での見出しは「薄汚れた模倣を恐れるーあくまで『文学死』」と、もっと直接的な表現であった。その内容は、「思想(この場合は陽明学)」とそれに触発された「行動」への警戒心と嫌悪であった。
別の本からの引用だが当時の中央公論の名編集者と言われた粕谷一希は「私はこの文章(三島への献辞)が、司馬さんのその後を決めたと思う。司馬さんは文士から国士になった」

司馬は、日本の戦前の思想や、戦後のマルキシズムは、人を酔わせるアルコール中毒と同じだと言い、中世のキリスト教や儒教は「飼い馴らし」の原理という。
70年代の日本人のほとんどが心情的に加担した南ベトナム民族解放戦線に対しても、「歴史や政治的正義はそこまで崇高ではない」(人間の集団についてーベトナムから考える)と、言い切っている。当時の時代の空気を知っている私の世代から考えると「果敢な発言」だと言える・・・但し、この本は世間からは余り注目されなかったが・・・

司馬は徹底的にリアリズムを重んじた。小説にも徹底した事実の積み重ねを実践した。顕著な例としては「坂の上の雲」を書く時の資料の使い方である。
陸軍の正式な戦史である「日露戦史」は、作戦の失敗を糊塗したい将軍、逆に作戦の成功を際立たせたい将軍が戦史部に圧力を掛け、記述が錯綜したり矛盾したものになった。司馬はこれでは役に立たないと考え、それにつけられていた数百枚の付図、部隊配置図は信を置けると考え、それに基づいて戦闘場面を記述した。「坂の上の雲」のリアリティの原点はそこにあった。著者はそれを「地図の文学化」という。
脱線するが、この小説はそれ以外にも当時の歴史観を変化させた。
それまでの日露戦争は学会の主流であったマルキシズムの学者たちからは「侵略戦争」と呼ばれていた。それを「天皇の戦い」ではなく、防衛的なナショナリズムを動力とする「国民の戦争」として描いた。
そして「地図の文学化」は、後半生のライフワークになった「街道をゆく」に繋がってゆく。ここでは、明治以前の日本の多様性を地方の歴史から説き起こしてゆく。

著者の言葉を借りれば、一連の小説や晩年の「この国のかたち」や「街道をゆく」を通じて、司馬が言いたかったのは日本人は原理や思想を持たぬことを恥じるな。ひたすら現実を見据えてリアリズムで生きよ、ということに尽きた。司馬遼太郎の後半生は、大陸とヨーロッパとに日本人が抱いていた気おくれをとり去り、島国文化の闊達さを再発見させることに費やされたといえる」

この本の感想を書き始めて、当初は本の感想文を書くつもりであったが、段々と私自身の気持ちを、著者の言葉を借りながら書いたような結果になってしまいました。
私は、このような偉大な作家が膨大は作品を残してくれたことに感謝し、改めてまだ読んでいない作品を読み尽くしたいと思うようになった次第です。

街道を撮りにゆく わたらせ渓谷鐡道

         花桃と桜の饗宴














わたらせ渓谷鐡道では、4月上旬頃に神戸(ごうど)駅を中心に花桃と桜のコラボレーションを見ることができます。

以下、写真をご覧下さい。(撮影は2025年4月10日)
































































2025年4月15日火曜日

街道を撮りにゆく さきたま古墳の桜(埼玉県行田市)

花や散るらむ・・・満開以上花吹雪未満の状態です













      
       丸墓山古墳(さきたま古墳群)の桜

「さきたま古墳群」は、かつては地元以外ではそれほど有名ではなかったのですが、和田竜の小説「のぼうの城」(野村萬斎主演で映画化)で一躍有名になり、今や桜の有名スポットになっています。

※「のぼうの城」の原型となった石田三成の忍城の水攻め
豊臣秀吉の小田原北条氏への攻撃に際して、北条氏の支城であった(行田の)忍城(おしじょう)は、石田三成率いる豊臣方2万人以上の軍勢に対して、わずか5百人で対抗する。
三成は、全長28㎞に及ぶ堤防を築き、利根川・荒川の水を利用して忍城を水攻めにしたのですが落城せず、最終的には北条氏の本拠であった小田原城が秀吉に降伏したため、北条方であった忍城も開城しました。そして三成には「三成の戦下手」というイメージが付き纏うようになったそうです。

以下、写真をご覧ください。(冒頭の写真は過去のものですが、それ以外は4月4日現在)

この丸墓山古墳の頂上に石田三成は陣を敷いたそうです。
この頂上からは、忍城および、この付近一帯の展望が開けています。

近くには「石田堤」と呼ばれる当時築いた堤防の跡が残っています。
















































〈参考〉映画「のぼうの城」のポスター


2025年4月3日木曜日

2025年 早春の花③ カタクリ













          三毳山のカタクリ

栃木県三毳山は万葉集にも読まれ、田中澄江の「新花の百名山」にも取り上げられた花の名山です。
三毳山のカタクリの群生地は「県立みかも山公園」内の〈カタクリの園〉と〈大田和群生地〉の2ヶ所と「佐野市万葉自然公園・かたくりの里」の3ヶ所があります。
今回は「佐野市万葉自然公園・かたくりの里」と「大田和群生地」のカタクリです。
以下、写真をご覧下さい。













この日は昨夜~未明にかけて雨が降り、気温が下がりなかなか花びらが開いてくれませんでした。
花びらや葉っぱにも雨の雫がついています。
















気温が上がってきたので、花びらが開きましたが、中央の花びらの1枚が、もう一息です。































































































2025年3月7日金曜日

2025年 早春の花②(落椿?散り椿?)

3月の花・・・落椿(おちつばき)

通常「花が散る」と表現するのは、桜やさざんかで、椿には適用されないようです。
俳句では「落椿(おちつばき)」と表現し、春の季語になっています。
調べた限りでは、歳時記では「落椿」という季語はありますが「散り椿」という季語はないようです。(3種類調べました)
ところが以前に見た映画「散り椿(原作:葉室麟)」が鮮明に記憶に残っており、語感としても「落椿」よりも「散り椿」の方が響きが良いように思います。
この映画(小説)のタイトルは、京都の地蔵院の五色八重散椿ごしきやえちり)が題名の由来となっていました。
つまり、一般的な椿は花の形のままドサッと落花しますが、地蔵院の椿はらはらと花びらごとに散るそうで、こういう椿を「散り椿」と称しているそうです。一度見てみたい気がします。

以下、写真をご覧ください。
撮影:2025/3/6
写真下部のピンクの色は落ちた椿の花です。